19日、99歳で死去した辛格浩(シン・ギョクホ、重光武雄)ロッテグループ名誉会長は、ガム事業を皮切りに70年近く韓国と日本の両国を行き来しながら事業を拡張し、ロッテを国内財界5位にまで成長させた人物だ。代表的な独力成功者型企業家と評価されるが、晩年には2人の息子の経営権紛争と本人の拘束危機
など、平坦ではない時間を過ごした。
1921年、慶尚南道蔚山(ウルサン)で農夫の息子として五男五女の長男として生まれた辛名誉会長は、1942年に密航船に乗って日本へ渡り、早稲田大学化学工学科夜間部を卒業した。1944年、潤滑油工場を立ち上げ事業を始めたが、米軍機の爆撃で工場が全焼することを経験した後、1948年に東京で(株)ロッテを設立した。ロッテは、辛名誉会長が大学時代に印象深く読んだゲーテの小説「若きヴェルテルの悲しみ」の主人公であるシャルロッテ(Charlotte)から取ったもの。ロッテグループは「『みんなに愛されたシャルロッテのように顧客に愛される企業を作る』というのが辛名誉会長の考えだった」と説明した。
当時、在日米軍に人気があったチューインガムを作って成功を収めた辛名誉会長は、1965年の韓日国交正常化で韓国に投資する道が開かれると、1967年にロッテ製菓を設立し、韓国にも進出した。以後、ロッテホテル、ロッテショッピングなどの食品、流通はもちろん、観光や建設、化学分野へ事業領域を広げたロッテは、国内財界5位のグループへと規模が膨らんだ。辛名誉会長は2011年前まで奇数月には韓国で、偶数月は日本に滞在したが、これによって「シャトル経営」という新造語が生まれもした。閉鎖的な経営方式と不透明な支配構造が噂された。ロッテグループの韓国、日本の系列会社は、つながり続ける複雑な循環出資構造を持っている。2006年に次男の辛東彬(シン・ドンビン、重光昭夫)ロッテグループ会長がロッテショッピングを上場しようとしたところ、辛名誉会長が「なぜ会社を人に売るのか」と言ったというエピソードも伝えられている。
辛名誉会長の晩年は屈曲が大きかった。2015年、長男の辛東主(シン・ドンジュ、重光宏之)前日本ロッテホールディングス副会長(現SDJコーポレーション会長)と次男の辛東彬会長の間にいわゆる「兄弟の乱」が起こった。辛東主前副会長の側に立った辛名誉会長は、2015年に辛東彬会長が開いた日本ロッテホールディングス臨時取締役会を通じて代表取締役から解任され、経営の一線から退いた。この過程で、グループ支配構造の頂点に日本法人があることが浮き彫りになり、ロッテグループの国籍をめぐる議論が起きた。
拘束の危機もあった。辛名誉会長は、ロッテシネマの売店の運営権を家族に集中させ、娘の辛ユミ氏に虚偽の給与を支給するなど、横領・背任の疑いで昨年10月、懲役3年の実刑が確定されたが、高齢や認知症など健康上の理由で刑の執行停止を受け、最近にはソウル中区小公洞(ソゴンドン)のロッテホテルなどで主に生活してきた。
辛名誉会長の死去で国内の「創業1世代」の経営人の時代は幕を下ろすことになった。サムスンのイ・ビョンチョル会長、現代のチョン・ジュヨン会長、LGのク・インフェ会長、SKのチェ・ジョンヒョン会長に続き辛名誉会長まで、高度成長期を率いたと評価される人々がみな死去した。この日、全国経済人連合会は「創業1世代企業人として先駆的な眼目と献身でロッテを国内最高の流通・食品会社へと成長させた」と哀悼を示した。中小企業中央会も「不毛の地だった百貨店を開拓し、中小企業の販路拡大に貢献し、韓国の観光産業発展のためにホテル分野を先駆的に開拓した」と故人を称えた。