母は今年も息子の誕生祝いの支度をする。キム・ミスクさん(51)は6日、早起きしていつもより丁寧にネギを切り、クリの皮をむいた。工場に出て遅くまで仕事をし、仲間たちと付き合うため、息子のヨンギュンは毎年母が支度してくれる誕生日のご馳走は食べるのか食べないのかはっきりしなかった。息子の大好物のカルビチムを必ず誕生日に食べさせてやろうと、母は数日前から思っていた。永久に24歳で終わってしまった泰安(テアン)火力発電所の下請け労働者「キム・ヨンギュン」が25歳を迎えるべき誕生日だった。
この日、「主人公のいない誕生日」を哀悼するため、キム・ヨンギュンさんの同僚たちも仕事を終えてソウルを訪れた。「故キム・ヨンギュン1周忌追悼委員会」の主導により、体感温度が氷点下6度に冷えこんだ天候の下、ソウル光化門広場で行われたヨンギュンさんの追悼祭には、彼の誕生日を迎え、発電所の非正規労働者たちも参加した。この場を共にした泰安火力発電所の仲間のイ・ジュンソクさんは、1年前のヨンギュンさんの最後の誕生パーティーにも来ていた。下請け労働者として働いていた彼が発電所内のベルトコンベアーに挟まれて死亡する5日前だった。入社して最初の誕生日を迎えたヨンギュンさんの誕生日を皆で集まって祝う席で、労働組合の専従のイさんは初めて彼に会った。暗くてかすんでいる発電所を出て居酒屋で会ったヨンギュンさんは、「無礼講タイム」まで設けて楽しい夕食時間を過ごした。「笑って楽しんで腹を割って話して過ごしたのに…私が見たヨンギュン君の最後の姿でした」。イさんはヨンギュンさんの死をいまだに信じがたいと言った。「今でも、ヨンギュンが勤務していたところを通ると、ヨンギュンが歩いて出てくるような気がします。仲間としてもっと気遣えなくてすまない」。
この1年、子に先立たれた苦痛に耐え、「闘士」となったキム・ミスクさんも、この日ばかりはいっそう胸が痛むようだった。キムさんは最近、これ以上労働者が職場で死なない世の中を作ろうと、キム・ヨンギュン財団を設立して国と闘っている。ヨンギュンさんの死以降、政府は「故キム・ヨンギュン死亡事故真相究明と再発防止のための石炭火力発電所特別労働安全調査委員会(キム・ヨンギュン特調委)を設け、22の勧告案を打ち出したものの、勧告案の大半は依然として履行されていないからだ。「現場が変わっていないのに、(政府は)机上の空論ばかり言って、履行しているかどうか確認もせずに一体何をしているのか、呆れてものも言えない」。世の中が変わらない限り、この世を変えられない限り、母親は苦しげに目を閉じた息子の誕生日を祝う面目が立たない。「次の人生があるなら、良い親にめぐり会って、寿命を全うし、幸せに暮らしてくれたらと思います」。
この日、キムさんの死を世間に初めて伝えた発電所労働者イ・テソンさんは「1年前に大統領に会い、プラカードを持って非正規職労働者たちのために闘ってきたが、未完の部分はヨンギュンとの約束を守れていないようですまない」と話した。彼らは、ヨンギュンさんに代わって闘っている母親のキム・ミスクさんに防寒靴と手袋、彼が好きだった歌手ナオルのアルバムを贈った。