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[インタビュー]30年前の今日「分断タブー突破」し民間人で初めて軍事境界線越えた

登録:2019-08-15 09:29 修正:2019-08-15 11:20
「平和と統一を開く人たち」常任代表のムン・ギュヒョン神父
ムン・ギュヒョン神父は1989年8月15日、命をかけて軍事境界線を越えて以来、これまで平和と統一運動の最前列を守ってきた=写真・平和と統一を開く人たち提供//ハンギョレ新聞社

 「30年もの月日が経ち、『統一の花』と呼ばれた20代前半の大学生が50代の中年になりました」

 「板門店軍事境界線を民間人が初めて通過」から30周年を迎えたムン・ギュヒョン神父(74)は14日、日本軍「慰安婦」被害者メモリアルデーの行事に参加するために移動中だと言いながら電話を受けた。ムン神父は1989年8月15日、全国大学生代表者協議会(全大協)代表として訪北したイム・スギョン氏(韓国外国語大学4年生)とともに南に帰還した。二人は朝鮮半島分断後初めて軍事境界線を越えて帰還した民間人だった。彼らは国家保安法違反の容疑で懲役5年の刑を受け、収監中の1992年、クリスマスイブに刑の執行停止で仮釈放された。

1989年8月15日、全大協のイム・スギョン氏「保護」 
「民間人で初めて軍事境界線を徒歩で通過」 
正義具現司祭団の“訪北”決定に従い  
「5・18亡命客」故ユン・ハンボン氏とニューヨークで会い 
「板門店を越え南北の境界をなくそう」と提案 
記念会「2020国際平和大行進」を推進

1989年8月15日午後2時22分、カトリック正義具現司祭団の要請で2回目に訪北したムン・ギュヒョン神父と全大協代表として平壌世界青年学生祭典に参加した大学生のイム・スギョン氏(左)が板門店の北側から軍事境界線を越え韓国に帰ってきている=ハンギョレ資料写真//ハンギョレ新聞

 1989年当時、半世紀の分断時代のタブーを破った衝撃的な事件は、二筋で準備されていた。イム・スギョン氏は89年6月21日にソウルを出発し、日本の東京やドイツを経て6月30日に平壌(ピョンヤン)に到着した。平壌で開かれる「第13回世界青年学生祭典」(7月1~8日)に全大協の代表として参加するためだった。北朝鮮は同大会の成功のために世界各国の青年・学生を招待した。20代の大学生の初の訪北は、南北双方を驚かせた。カトリック正義具現全国司祭団は、イム氏が無事に帰還できるようムン神父を北側に派遣し同行させることを決めた。民主・統一運動を弾圧する公安政局化を阻止するためだった。

 ムン神父はこれに先立つ89年6月6日に1回目の訪北をし、平壌のチャンチュン聖堂でミサをささげ、米国に滞在中だった。彼は7月25日の2回目の訪北に先立ち、「5・18光州抗争の最後の手配者」として米国に亡命中だった故合水(ハプス)ユン・ハンボン氏(1948~2007)を訪ねた。ムン神父は「ユン先生にニューヨークの韓国青年連合(韓青連)の事務所で会った瞬間が、いまでも目に浮かぶ」と語った。韓青連のメンバーがその年の7月、11万人の米国人から「朝鮮半島の反核平和祈願署名」を受け、ニューヨークの国連本部前を出発しワシントンDCに向かった直後だった。

 全斗換(チョン・ドゥファン)新軍部の脚本によって5・18抗争の首謀として手配されたユン・ハンボン氏は、1981年4月に貨物船に乗り35日かけて米国に密航し、国際平和運動を繰り広げていた。「ユン先生に会い、司祭団の要請で国際平和大行進と共にすることにしたので助けてほしいと言いました。ユン先生は『連帯してくれてありがとう』と涙を流しながら熱く抱きしめて受け入れてくれました」

1981年、密航を経て米国への亡命に成功した頃のユン・ハンボン先生。彼は1989年7月、北朝鮮で国際平和大行進を企画し、ムン・ギュヒョン神父とイム・スギョン氏の「板門店徒歩帰還」を支援した=写真・合水ユン・ハンボン記念事業会提供//ハンギョレ新聞社

 合水ユン・ハンボン記念事業会のファン・グァンウ常任理事も同日「軍事境界線を徒歩で通過するという歴史的な事件の企画者は、まさにユン・ハンボン先生だった」と話した。

 在米韓青連は、白頭山から漢拏山まで徒歩で歩くという奇想天外な構想を推進中だった。韓青連は国際平和大行進準備委員会を設置し、議長に英国人のヒューステファン氏を推薦した。韓青連は7月20日に白頭山を出発し、休戦協定調印日の7月27日に板門店に到着し、国際平和大会を開くことにした。彼は「朝鮮半島の分断状況を国際社会に知らせるためのこの構想の核心は、軍事境界線を通過し、南北の境界をなくすことだった」と述べた。

 同年7月20日、北朝鮮の三池淵で開かれた国際平和大行進の発足式には、朝鮮戦争に参戦した16カ国を含む約30カ国から400人余りが参加した。国際平和大行進団の先頭にはイム・スギョン氏が立った。行進団は白頭山や沙里院(サリウォン)、開城(ケソン)などを巡り、「コリアは一つ」、「平和協定を締結せよ」とスローガンを叫びながら行進した。2回目に訪朝したムン神父は7月27日、板門店大会に合流した。

 しかし、二人は国連軍司令部の不許可などの理由で韓国に帰還できなかった。ムン神父とイム氏など行進団65人は、翌日から板門店の北側でハンガーストライキを始めた。「何度も軍事停戦委員会が開かれたが協議できずにいたところ、北側が決断を下しました。その決断を引き出すために、北の表現を借りれば『事変的な板門店ハンスト闘争』で強制したのです」

 そして、ついに8月15日、二人は手をつないで並んで軍事境界線を越えてきた。ムン神父は「国際平和大行進準備委員会と全大協、イム・スギョン氏が互いに考えが一致し、分断線を通過した」と回顧した。そのうえで「明らかなのは、国際平和大行進組織委員会が主体的に実行した国際大会だった」と付け加えた。ムン神父は「分断のタブーを破ることができてありがたいことだったが、気持ちは今でももどかしい。しかしまた別の希望として、いつも初心を忘れずに再び朝鮮半島の平和のために進まなければ」と語った。

 ユン・ハンボン記念事業会は今年と来年、朝鮮半島の平和定着のための激動期を迎え「国際平和大行進」を再び推進している。ファン・グァンウ常任理事は「朝米首脳会談の結果が朝鮮半島の運命を左右する状況で、平和と統一の真の主体である国民の実践活動が切実に必要だ。2020年の5・18民衆抗争40周年記念式で『第3回国際平和大行進』発足式を開くことができるよう、賛同を集めたい」と話した。

チョン・デハ記者 (お問い合わせ japan@hani.co.kr )
https://www.hani.co.kr/arti/society/society_general/905814.html韓国語原文入力:2019-08-14 22:35
訳M.C

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