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「日帝末期、済州島にも“慰安所”があった」

登録:2019-07-08 22:16 修正:2019-07-09 07:45
済州大平和研究所、記者会見で目撃者証言 
オ・シジョン氏「家の近所の海岸付近で慰安所2カ所運営」 
「1ヶ所に5~6人いて、海軍特攻部隊員が利用」
日帝強制占領末期、済州道城山里で慰安所を目撃したというオ・シジョン氏(左)とチョ・ソンユン済州大学教授が8日、西帰浦市城山邑の城山里事務所で記者会見をしている=ホ・ホジュン記者//ハンギョレ新聞社

 太平洋戦争末期の1945年4月頃から、日本軍敗戦まで済州島(チェジュド)で日本軍慰安所が運営されていたという証言が出てきた。済州大学平和研究所(所長 チョ・ソンユン)は8日、西帰浦市(ソグィポシ)城山邑(ソンサンウプ)の城山里事務所で「日帝強制占領期間の城山里日本軍慰安所公開記者会見」を開き、このように明らかにした。しかし、証言者が1人だけであるうえに、これを裏付ける証拠史料がまだなく、追加調査が必要と見られる。

 この日、証言者として出てきたオ・シジョン氏(91)は、当時自分の村に「日本軍慰安所」が2カ所あったと話した。1カ所は自分が暮らしていた家から30メートルも離れていないところにあった民家であり、もう1カ所は自宅から100メートル程度離れたところにあった日本人の旅館だったと記憶していた。当時16歳だったオ氏はこの日「日本海軍の特攻部隊が入ってきた後、軍が一戸を徴発し慰安所にした。1カ所に5~6人の女性がいた。どこからきた方々なのは分からないが、20歳未満もいたし、25~26歳になった人もいたし、韓服(朝鮮半島の伝統衣裳)を着ていた。だが、慰安所の内側はよく見えなかった」と証言した。

 オ氏は、その施設が“慰安所”だという判断根拠として「すぐ裏の家に住んでいたので分かった。日本の軍人が運営していたことが分かった。軍人が慰安所の前で列をつくっている姿も見えた。女性たちが外を出歩くことはなく、老兵(日本軍108混成旅団)が(必要な物品を)運んでいた」と話した。これらの慰安所には一般の日本兵ではなく予科練(済州島では“人間兵器”と呼ばれる日本海軍特攻部隊の)隊員だけが通っていたとオ氏は記憶していた。オ氏はまた「慰安所の女性や日本の軍人と対話する機会はなかったが、毎日制服を着た人々が出入りするのを見た」と話した。

慰安所目撃者のオ・シジョン氏が明らかにした城山里慰安所跡地=ホ・ホジュン記者//ハンギョレ新聞社

 これと関連して、最近『太平洋戦争末期、予科練の済州島駐留と慰安所』という論文を発表した済州大学のチョ・ソンユン、コ・ソンマン教授は、論文でオ氏の証言を基に「オ氏が慰安所の外観とそこの女性たち、休日には慰安所の前に立ち並んだ「七つボタン」(予科練の別名)の姿をしばしば見ることがあったという。オ氏が予科練以外にはそこに列んでいるのを見られなかったとし、主に休日の午後に予科練たちが行き来するのを見た。慰安所の付近には、動哨(動き回りながら警戒に当たる哨兵)が立っていて、オ氏は遠くから見るだけで近寄れなかった。その前に軍人が整列して立っていたと証言した」と伝えた。

 論文にはまた、オ氏が1970年代に当時慰安所で見た女性に一度会った話も載せられている。オ氏は論文で「最初は(その女性が)私を避けていたが、徐々に話をするようになり、一人だけを相手にしたのではなく、一日に2~3人になる時もあり、5~6人になる時もあったと話した」と証言した。しかし、オ氏はこの日の記者会見では、このことについては記憶していなかった。

 この日の記者会見は、慰安所の存在を直接目撃したというオ氏の証言に基づいてなされたが、それを裏付ける他の住民の証言や証拠史料がなく、残念な思いを残した。研究者が会った1920~1930年代生まれの5人のうち、オ氏を除く4人は慰安所の存在を知らなかった。チョ教授は「北朝鮮、大邱(テグ)、釜山などにも慰安所があったという話がある。だが、現在の証言者がいて場所を特定できるケースは済州が初めてなので、まだ不十分ではあっても公開することにした。韓国国内に設置された慰安所の研究を促進する機会にして欲しい」と話した。

1945年5月、済州、高山里(コサンリ)の小学校前で撮影した第120震洋隊所属予科練の団体写真=『写真集 人間兵器震洋特別攻撃部隊 下巻』より//ハンギョレ新聞社

 研究陣が発表した論文によれば、済州島駐留日本海軍の海岸特攻基地は、城山日出峰(ソンサンイルチュルボン)海岸、西帰浦(ソグィポ)の三梅峰(サンメボン)海岸、高山の水月峰(スウォルボン)海岸の3カ所だった。城山日出峰海岸に配置された第45震洋隊は「村山部隊」という別称で知られ震洋艇1型50隻があり、そのため日出峰海岸に18個の坑道を作った。この部隊は1945年4月、城山浦(ソンサンポ)に入ってきた。震洋艇はベニヤボートに爆弾を装着し、日本海軍特攻部隊(予科練)兵士が搭乗して米軍の軍艦に向け突進し衝突・爆破する艦艇だ。ここでは予科練は海の“神風”のような部隊だった。

ホ・ホジュン記者 (お問い合わせ japan@hani.co.kr )
https://www.hani.co.kr/arti/area/jeju/900964.html韓国語原文入力:2019-07-08 20:55
訳J.S

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