韓国で1980年代後半に始まった「慰安婦」運動は、特に米国で大きな呼応を得た。1990年代と2000年代には韓国人慰安婦被害者のハルモニ(おばあさん)が被ったおぞましい性的奴隷の経験を米国の多くの大学や団体の聴衆に証言し、アメリカ人の心を打った。証言を聴いたアメリカ人は、日本対韓国の歴史問題ではなく、軍の暴悪な性暴行で女性の人権が侵害されたという認識から慰安婦運動を支持した。そして2010年代からは慰安婦被害者たちが高齢化して証言が減った結果、記念碑と少女像を立てる運動に変わった。
2010年のニュージャージーを皮切りに米国の各地に13個の慰安婦記念碑と少女像が建設された。このうち12個は、韓国人の運動家が韓国人集中居住地域の公共場所に立てられた。このようにしてアメリカ人に悲劇を想起させることができた。また、慰安婦記念碑や少女像を立てるには、市議会の許可を受けなければならないが、そのためには地域住民と政治家が参加する公聴会を経なければならない。この過程が慰安婦イシューを知らせる良い機会になった。
昨年9月、サンフランシスコに慰安婦記念碑を立てた。日系アメリカ人が最も集中して暮らすこの大都市に、韓国、中国、フィリピンの慰安婦被害者が手を携えているデザインの記念碑が建設されたことは、とても特別な意味を持つ。日系の反発が激しく、市議会通過はほとんど不可能だと思われたが、建設に成功したのは奇跡に近いことだ。
この事業は、韓国人のみならず中国人、日本人、ユダヤ人の団体が連帯した記念碑建設委員会が成功させた。特に中国系が大きな貢献をした。この運動に参加したユダヤ人の代表ジュディス・モキンスン氏が、私たちの在外韓国人社会研究所が主催した2017年学術大会で発表した論文によれば、中国系の建設委員代表であるリリアン・シン氏とジュリー・タン氏はサンフランシスコで長く判事として在職していた。判事の政治中立原則のために、彼女たちは判事職を辞退までしてこの運動に加わった。彼女たちは特に、中国人慰安婦と南京虐殺犠牲者を記念するために参加を決意した。ユダヤ人団体も第2次大戦当時400万人のユダヤ人虐殺という胸の痛い歴史があって積極的に参加した。日系アメリカ人3~4世もやはり第2次大戦当時、彼らの先祖である日系1~2世が米国西部のキャンプに強制収容された歴史を記憶するために参加した。
サンフランシスコ市議会に数千の少数民族および女性団体が記念碑設立支持請願書を出した。一部の日系団体は、記念碑が立てられれば日系の子どもたちが人種嫌悪を受けると主張した。だが、別の進歩的日本人団体は2013年にカリフォルニアのグレンデールに韓国慰安婦少女像が立った時もそのような心配があったが、これまで日本人嫌悪事件は起きていないと反論した。
米国西部で日本の右翼の立場を代弁してきたコーイチ・メラ(目良浩一)博士が公聴会に参加して、強制動員されたというイ・ヨンスさんの証言に反論し、慰安所に「売春婦として売られた」と主張した。すると、公聴会に参加していた多くの聴衆は、ハルモニを冒とくする発言だとしてコーイチ博士を猛非難し、記念碑建設に反対していた一部の議員までも支持側に回ったという。
サンフランシスコの記念碑の碑文は公募を通じて採択された。「私たちが最も恐れなければならないことは、第2次大戦の辛い歴史に対する記憶を忘れてしまうこと」だ。そうだ。アジアの「慰安婦」女性たちに起きたおぞましい歴史を忘れないために、私たちは記念碑を立て続けなければならない。遠い米国の地でも続いているのに、まして韓国でなぜ日本政府が記念碑を立てるなと主張するのか?日本の政治家たちが途方もない政府予算を投じて記念碑建設運動を妨害するのか理解しがたい。だが、その理由は分かっている。彼らは、女性を性的奴隷として強制動員した事実を知っているので、記念碑を見れば良心の呵責に耐えられないのだ。
ミン・ビョンガプ・ニューヨーク市立大学校大学院およびクイーンズカレッジ客員教授・在外韓国人社会研究所所長