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故キム・ヨンギュンさん、事故から62日後の葬儀…「非正規職のない社会を作る」

登録:2019-02-12 09:43 修正:2019-02-12 14:11
ソウル大病院で出棺後、泰安火力発電所9・10号機前で路祭 
ソウル光化門の路祭には市民3000人が集まり最後の見送り 
「若いキム・ヨンギュンを見送る日…非正規職のない社会を作ろう」 
ヨンギュンさんの母「また会う日に抱きしめてあげる」最後の手紙
非正規職青年労働者の故キム・ヨンギュンさんの葬式が事故から62日後の今月9日に行なわれた。この日午後、ソウル光化門広場で行われた告別式でキムさんの母キム・ミスクさんが涙を流している=キム・ジョンヒョ記者//ハンギョレ新聞社

 「ヨンギュン、やむを得ずあなたを冷たい冷凍庫に置いておくしかないお母さんでごめんね…(中略)…いつかお母さんとお父さんがあなたの元へ行くとき、その時にはお母さんが腕を広げてあなたを抱きしめて慰めてあげる。いつまでも愛している。私の息子、ヨンギュン」(故キム・ヨンギュンさんの母、キム・ミスクさん)

 昨年12月11日未明、忠清南道泰安(テアン)火力発電所で、ベルトコンベアーに巻き込まれ死亡したキム・ヨンギュンさんの葬式が9日、執り行われた。キムさんが事故で死亡してから62日めだ。「故キム・ヨンギュン労働者民主社会葬葬儀委員会」はこの日早朝4時、遺体が安置されていたソウル大病院葬儀場で出棺し、故人の職場である忠清南道泰安火力発電所9・10号機の前で路祭(路上で行われる葬儀)を行った後、ソウルに上京した。約3000人(主催側推算)の市民が路祭に参加し、キムさんの最期の道を見送った。

 この日午前3時30分ごろ、ソウル大病院の葬儀場2階には「私がキム・ヨンギュンだ」というフレーズを胸にかけた人たちが、キム・ヨンギュンさんと最後の挨拶を交わすため廊下の両端に並んで立った。キム・ヨンギュンさんの従兄であるファン・ソンミンさん(25)がキムさんの遺影写真を、イ・ジュンソク公共運輸労組韓国発電技術支部泰安支会長が位牌を持った。キム・ヨンギュンさんの母キム・ミスクさんは、泣き腫らした目で息子の遺影の後に続いた。

9日午前3時37分頃、ソウル大病院の葬儀場の遺体安置所からキム・ヨンギュンさんの従兄のファン・ソンミンさんがキムさんの遺影を持って出てきている=イ・ジュビン記者//ハンギョレ新聞社

 「いちごが好きで、『ロード・オブ・ザ・リング』の一つの指輪が欲しかった夢多き青年、目に入れても痛くない心優しい息子、両親のたった一つの希望」

 葬儀委員長のパク・ソクウン韓国進歩連帯常任代表は、キム・ヨンギュンさんについてこう語った。パク代表は「(そんなキムさんが)軍隊を除隊したばかりなのに仕事が見つからず、公企業の発電所の非正規職として就職し、3カ月後に悲惨な死を遂げた」と弔文を朗読した。

 涙をこらえていた遺族は、棺が安置室の外に出ると、「ヨンギュン!」と叫びながら号泣した。あちこちで泣く声があふれた。キムさんの遺体が霊柩車の中に入りドアが閉まると、人々は黙祷した。キム・ヨンギュンさんの母キム・ミスクさんは、黙祷が終わった後も目をつぶり数秒間霊柩車の前でじっと立っていた。車は忠清南道泰安に向かった。

 午前6時45分。霊柩車が忠清南道泰安火力発電所の正門に到着した。霊柩車の前では「私がキム・ヨンギュンだ」「死の外注を止めろ」「非正規職のない社会よ、早く来い」などのフレーズが書かれた8つの挽章(死者を悼む文言を書いたのぼり)が翻った。風は冷たく強かった。挽章がぐらつくと、誰かが「2人1組」と叫んだ。挽章1つにさらに1人ずつついて、ようやく挽章は風の中でも堂々と立ち上がった。その後ろには放送車両と「青年非正規職の故キム・ヨンギュン労働者」と書かれた銘旗が続いた。遺影と位牌、霊柩車、大型の遺影写真をはじめ、キム・ヨンギュンさんが明るい光の前で手を広げ安らかな顔で前を見つめる復活の図も順に並んだ。

 行列は泰安火力発電所の正門から出発し、キム・ヨンギュンさんが勤務していた火力発電所9・10号機の前に着いた。7時過ぎ、うっすらと夜が明け始めた。ソウルから遺族と一緒に出発したキム・ヨンギュンさんの同僚、市民をはじめ忠清南道地域の労働者まで、計400人余りがその場に参加した。路祭が始まる前、遺族が祭祀を行った。ファン・ソンミンさんが礼を二回あげる間、キム・ミスクさんは微動だにせずキム・ヨンギュンさんの遺影を見つめていた。司会を務めたク・ジェボ故キム・ヨンギュン労働者民主社会葬組織霊柩委員長がスローガンを叫びながら路祭を始めた。「わたしがキム・ヨンギュンだ、死の外注化を止めよ、闘争!」約400人が一緒に掛け声を叫んだが、キム・ミスクさんは口を開くことができなかった。

 公共運輸労組韓国発電産業労組のパク・テファン委員長は追悼の辞で、「(キム・ヨンギュンさんが)暗く冷たいベルトコンベアーで命を失ってから62日が過ぎた。しかしながら、私たちはその間あなたを冷たい冷凍庫に寝かせ続けていた」と述べた。パク委員長は「しかし私たちは忘れない。故人が命を失い、息子に先立たれた母と父の沈痛な心を抑え、二度と息子のように命を失うことがないようにしてほしいと叫ぶご両親の哀切を深く心に刻む」と語った。キム・ミスクさんは追悼の辞を聞きながら、ときおり紫色のハンカチで涙を拭った。「ここで咲かせることのできなかった青春、天国ではゆうゆうと飛んでゆけることを祈る」という下りでは、空を見上げたりもした。金キム・ミスクさんの視線の先には、白い煙を噴き出す煙突があった。

9日午前6時58分頃、忠清南道泰安火力発電所で、キム・ヨンギュンさんの遺影の列が行進している=イ・ジュビン記者//ハンギョレ新聞社

 続いて、ムン・ヨンミン民主労総世宗忠南本部長の二番目の追悼の辞が朗読された。謝罪から始まり、謝罪で終わる追悼の辞だった。ムン本部長は「ヨンギュン君のお父さん、お母さん、申し訳ありません」と口を開いた。続いて「青年労働者キム・ヨンギュンさんは、非正規職の下請け労働者の死の外注化へと向かうベルトコンベアーにブレーキをかけた。このような資本の貪欲さが当然視される社会構造に歯止めをかけた。キム・ヨンギュンさんは死のコンベアーを自分の死で止めることで、数百万のキム・ヨンギュンを生かした」と語った。「そして今日になってやっと非正規職のくびきを抜け出し、短かった恨多きこの世を発とうとしている。たった一人の息子のために生き、残酷な死をも受け入れられなかった両親を置いて旅立つのが忍びないことはよくわかる」。ムン本部長の言葉に、ヨンギュンさんの母キムさんはついにこみ上げる感情を抑えきれず、うなだれて涙を流した。

 キム・ヨンギュンさんと同じ1パートのチームメンバーだったキム・ソンホ公共運輸労組韓国発電技術支部泰安支会組合員は、キム・ヨンギュンさんとキムさんの両親に手紙を書いた。キム組合員はキム・ヨンギュンさんに「真相究明は6月30日までに調査結果発表ということなので、君の無念の死はその時になってようやくはっきりすると思う。君の無念な死を広め、このように君を見送るまで、ずいぶん遅くなってしまった」と、悔しさを表した。キムさんの両親には「私はヨンギュンより4カ月ほど先に入社した、ヨンギュンと同じ新入りです」と言い、「多くのスケジュールと否定的なマスコミ、泰安市民の否定的な態度などに疲れきって、辞めたいとも思った。でも、ヨンギュン君の事故後、私を抱きしめながらこの仕事は劣悪で危険だから早くあなたたちはここから離れなさいとおっしゃった時、そして寒い日にお母さんが手を握って慰め励ましてくださり、私たちより前に出て闘っている姿を見た時、それが大きな力になって今まで来れた」と、感謝の言葉を伝えた。

 チェ・ギュチョル公共運輸労組韓国発電労組韓電産業開発支部泰安支会長は「これからは作業現場が安全な社会、非正規職のない社会、人間が人間らしく生きられる現場を必ず作る。キム・ヨンギュン同志よ、安らかにお眠りください」と喪事の挨拶をした。この日、ヤン・スンジョ忠清南道知事も泰安の路祭を訪れた。ヤン知事は「キム・ヨンギュン同志の死が無駄にならないよう、非正規職や日雇い労働者が人間らしく生きられる社会を作れるよう最善を尽くすことを約束する」と述べた。泰安での1次路祭は、献花を最後に午前8時ごろ終わった。

 キムさんの霊柩車は、再び3時間走りソウルに到着した。キム・ヨンギュンさんの民主社会葬のための運柩行列は、午前11時頃から隊列を整えた。キム・ヨンギュンさんを表すシンボルを先頭に、非正規職100人代表団がその後に続いた。彼らは、キム・ヨンギュンさんが「文在寅(ムン・ジェイン)大統領、非正規職労働者と会いましょう」というメッセージを持って撮った写真と「キム・ヨンギュンの気持ちで闘います。非正規職はもう終わり」という文句が書かれたプラカードを掲げた。次に50個余りの挽章、プンムル隊(民俗打楽器)、銘旗、放送車、遺影と位牌、花の輿、霊柩車、遺族、大型の遺影、復活の図の順で立った。行列の最後には紫色の風船を持った人たちが立った。その前には100本余りの団体旗がはためいた。

 2次路祭は、ソウル鍾路区(チョンノグ)の興国生命光化門(クァンファムン)支店前で始まった。チェ・ジュンシク故キム・ヨンギュン労働者民主社会葬葬儀委員長は「同志の死後、大韓民国社会には多くの変化があった。一歩も動かなかった産業安全保健法が28年ぶりに改正された。労働者の現実に対する市民の認識がめざましく向上した」と述べた。チェ委員長の発言とともに、運柩行列は光化門広場に向かった。間隔調整のため、しばらく行進が止まったりもした。キム・ヨンギュンさんの遺影を持ったファン・ソンミンさんはその間に、ソウル図書館の外壁に貼られたキム・ボクトンさんの追悼写真を眺めた。ソウル図書館の片方を埋めるほどの大きなプラカードには、キム・ボクトンさんの写真とともに「後世たちが安心して生きていくことが私の願いです」と書かれていた。光化門大通りを埋め尽くした行列に市民たちも足を止めた。市庁駅5番出口の前で会った市民Lさん(52)は「霊柩車が来るのを見て泣いた。遅くなったが、今からでも葬儀を行うことになってよかった」と言い、「ベルトコンベアーに巻き込まれる場面がを何度も想像された。事故の原因が早く究明されなければ」と話した。Lさんは長い行列が終わるまでその場を離れなかった。

9日午後、ソウル光化門広場で非正規職労働者キム・ヨンギュンさんの告別式が行われている=キム・ジョンギョ記者//ハンギョレ新聞社

 昼12時頃、焼香所のろうそくを灯し、キム・ヨンギュンさんの民主社会葬の告別式が始まった。この告別式には3000人余り(主催側推算)が出席した。遺族を中心に顧問、葬儀委員長、発電非正規職、労災被害者、セウォル号の遺族が告別式の前列を埋めた。

 「小さい(年下の)ヨンギュン」であるキム・ヨンギュンさんと同じ名前の「大きい(年上の)ヨンギュン」のキム・ヨンギュンさんが、手紙を朗読した。キムさんは「夢のために一生懸命勉強して働いていたヨンギュン。毎日遅い夕食を食べながらも、明日のための勉強をおろそかにしなかったヨンギュン。その若さがうらやましかったヨンギュン。ヨンギュンよ、君に会いたい」と語った。この日、ペク・キワン統一問題研究所長も「故キム・ヨンギュン労働者民主社会葬葬儀委員会顧問」として告別式に出席した。ペク所長はキム・ミスクさんの隣に座って慰めを伝えた。ペク所長は舞台で「ヨンギュン君は死んだわけではない。お金が主人でお金ばかりのこの社会が、ヨンギュン君を虐殺した」と声を荒げた。

 故人の魂を慰める鎮魂の舞が続き、出席者たちは真相調査を求めてハンガーストライキに突入した「6人ハンスト」の弔辞を映像で見ながら悲しみを分かち合った。キム・ミョンファン民主労総委員長は「まぶしいほど青い日だ。まぶしいほど青い青春だ。青く若々しいキム・ヨンギュンを送る日だ。しかし、残されたキム・ヨンギュンたちの未来が青々しくあるよう、非正規職のない世の中を作り出すと誓おう。いや、誓う。いや、必ずやり遂げる」と弔辞を伝えた。詩人のソン・ギョンドン氏は「真相を解明しなければ」という詩を朗読した。

キム・ヨンギュンさんの母キム・ミスクさんが9日午後、ソウル光化門広場で行われた息子の告別式で涙を流しながら遺族代表として挨拶をしている=キム・ジョンヒョ記者//ハンギョレ新聞社

 もう涙も乾いたキム・ミスクさんは、プロデューサーだった故イ・ハンビッさんの母キム・ヘヨンさんの弔辞を聞き、一番たくさん涙を流した。イ・ハンビッさんは、長時間労働を暴露する遺書を残し、2016年に死亡した。キム・ヘヨンさんは泣きながら弔辞の朗読を始めた。キムさんは「私も3年前、27歳の息子ハンビッを失った。しかし今日までもハンビッの部屋を開けると胸をかきむしるほど、息子の死を受け入れられずにいる。遺族にとっては子どもを失った日、時間も一緒に止まる。記憶も止まる」と、息子に先立たれた母親の苦しみを伝えた。キムさんは「愛する息子、ヨンギュンとハンビッ、そして死の労働の現場で先に逝った息子や娘たち、つらい人生から離れ、天国では平和な安らぎを得ると期待している」と発言を終えた。キム・ヘヨンさんはキム・ミスクさんに近づいて抱き合いながら慰めの言葉をかけた。二人の母親は嗚咽した。

 遺族の発言も相次いだ。彼らが舞台に上がるときは「私がヨンギュンの母だ、私がヨンギュンの父だ、私たちみんながヨンギュンだ」というスローガンが上がった。キム・ミスクさんは「ヨンギュン、やむを得ずあなたを冷たい冷凍庫に置いておくしかないお母さんでごめんね。でもお母さんはあなたの悔しい汚名を取り除かなければならなかったし、あなたの死が無駄にならないよう、多くの人たちがあなたをいつまでも忘れず覚えていてくれることを切実に願っている」と語り、「政府と西部発電、そしてあなたが所属していた韓国発電技術が、昨日あなたに公式謝罪文を発表して、あなたに過ちがなかったことを宣布した」と話した。そして「いつかお母さんとお父さんがあなたの元へ行くとき、その時にはお母さんが腕を広げてあなたを抱きしめて慰めてあげる。いつまでも愛している。私の息子、ヨンギュン」と、旅立った息子に送る手紙を結んだ。

 この日の告別式には、共に民主党のウ・ウォンシク議員、民主平和党のチョン・ドンヨン代表、正義党のイ・ジョンミ代表、正義党のユン・ソハ院内代表、正義党のシム・サンジョン議員らも参加した。彼らは献花を終えてキム・ミスクさんを抱きしめて慰めた。

 故人の遺体はこの日午後2時30分頃、京畿道高陽市(コヤンシ)徳陽区(トクヤング)の碧蹄ソウル市立昇華院で火葬された後、京畿道南揚州市(ナムヤンジュシ)麻石(マソク)の牡丹公園に安置された。

イ・ジュビン記者 (お問い合わせ japan@hani.co.kr )
https://www.hani.co.kr/arti/society/society_general/881456.html韓国語原文入力:2019-02-09 20:03
訳M.C

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