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済州の学生たちは、なぜ“洋菓子反対運動”をしたのか

登録:2018-10-16 20:58 修正:2018-10-17 06:43
[済州4・3企画 椿に尋ねる 2部(2)] 
解放空間、済州の学生たちが展開した洋菓子反対運動 
「私たちは乞食ではない、洋菓子ではなく食糧をくれ」 
親戚の家に20日間隠れていたが、母親の強い勧めで日本に 
「4・3の完全な解決は、犠牲者に差別があってはならない」

 「解放当時、済州(チェジュ)島民がどれほど飢えていたか。済州島には食糧がなかった。米軍政が食糧を配給してようやく生きていけるのに、洋菓子を配った。そこでチョコレートではなく食糧を配給しろと訴えたのだ」

 米軍政期の1947年初め、済州島内の学生たちの洋菓子反対運動は食糧問題と結びつき、島民たちの呼応を得て済州島全域に広がった。当時の洋菓子反対運動の主役の1人だったヒョン・ジョンソンさん(91・東京・済州咸徳里出身)が、洋菓子反対運動について口を開いた。彼は当時20歳の済州農業中学校(農業学校)の3年生(6年制)だった。

 今年1月、東京で会ったヒョンさんは「日帝時代、農業学校の学生たちは、農村に供出監視要員として出て行き、両親や兄弟が血の汗を流して生産した穀物を供出するのを見守った。食糧を奪われた島民たちは飢えた。そうした経験のために、解放後に食糧でなく米国の洋菓子が入ってくると反対運動に乗り出した」と話した。

 「トラックに学生代表10人余りが乗った。済州中のオ・ヒョンジュン代表もいたし、私は農業学校の代表として参加した。村ごとに車を止めて、紙で作ったメガホンを握り演説した。『私たちは乞食ではない』、『洋菓子を食べるのをやめよう』、『食べ物をくれ』と叫んだ」。望百(91歳)の年齢にもかかわらず、ヒョンさんはその当時を生々しく覚えていた。

1947年初め、済州で起きた洋菓子反対運動について話すヒョン・ジョンソンさん=ホ・ホジュン記者//ハンギョレ新聞社

 洋菓子問題は全国的に左右の別なく深刻な国内経済・社会問題と認識された。左翼・右翼団体も1947年1月、一斉に声明を出し「洋菓子を食べるのをやめよう。新開化とともに入ってきた飴玉を食べて滅びてしまった経験を思い起こそう」、「米国は朝鮮を商品市場化しようとしている。洋菓子は甘いが、私たち民族の繁栄と独立には関係ない」として、洋菓子輸入に反対した。

 学生たちが構成した済州島内中等学校連盟は、1947年2月10日済州米軍政庁のある済州市の観徳亭広場で「朝鮮の植民地化は洋菓子から阻止しよう」というスローガンを掲げ、洋菓子輸入反対デモを行った。米軍の情報報告書には「350人余りの学生が米軍政部隊前でデモを行い、これを強制解散させ市外に追い出した」と記録されている。ヒョンさんは「米軍政庁前でのデモで先頭に立った。米軍がジープに機関銃を設置し威嚇した。機関銃で撃たれるかと思い、その後は出て行けなかった」と回顧した。

 洋菓子反対運動が起きる直前の1946年下半期には、済州農業中学校の学生たちが“日帝残滓教育”と“ファッショ教育”に反対してストライキ休業運動を展開した。これと関連してヒョンさんは「1年上の先輩と仲が良くなかった。日帝時の悪い慣習がそのまま引き継がれていて、後輩をしょっちゅう殴った。それで済州市の沙羅峰(サラボン)に集まって、いわゆる『沙羅峰会議』を開いてストライキ休業に入った」と話した。

「済州新報」1947年2月10日付に報道された済州地域の学生たちの洋菓子反対デモの記事=ホ・ホジュン記者//ハンギョレ新聞社

 解放を迎えたヒョンさんと彼の同僚にとって、米軍は“解放軍”だった。米軍が初めて済州島に上陸したのは、解放から44日後の1945年9月28日だった。この日、済州農業学校で開かれた済州島駐留日本軍第58軍司令部の降服調印式に参加するため、米軍第24軍団降服受付チームが済州に来た。ヒョンさんと同僚たちは「解放軍が来ると言って星条旗を作り歓迎に出かけたが、米軍は別の道を通って行ってしまった」と回顧した。

 ヒョンさんは「米軍を解放軍と考えたが、時間の経過とともに『おかしい。私たちを解放すると言ったのに、そのような動きがないではないか』という気がして、徐々に対立するようになった」と話した。ヒョンさんは、洋菓子反対運動の時ビラを貼って警察に捕まり、いわゆる“サザエ拷問”(細かく砕いたサザエの殻の上に、ひざまずいて座らせ膝を踏む拷問)などを受け拘禁されもした。その後、1947年3・1節記念大会で警察の発砲で6人の犠牲者が発生したことに対する抗議で展開した3・10全面ストライキ関連ビラを貼って、国防警備隊員に捕まり逃げた。

 ヒョンさんは、朝天(チョチョン)の親戚の家の板の間の下に隠れて過ごしていたが、20日目の夜に咸徳里の母親がうわさをたよりに捜して訪ねてきた。「私の後についてきなさい。ここにいたら殺される。日本に兄さんがいるからそこに行けばご飯は食べられる」。母親について真夜中の道に出たヒョンさんは、咸徳里の入り江で密航船に乗った。それが母親との最後の出会いになった。彼は日本に密航してくる故郷の人々から済州で起きた4・3の惨状を伝え聞いた。ヒョンさんの兄と甥も4・3の時に犠牲になった。

駐韓米軍司令部の週間情報報告書(1947.2.16)には、学生たちが米軍政部隊前でデモを行い、強制解散させ市外に追い出したと記録されている=ホ・ホジュン記者//ハンギョレ新聞社

 兄がいた大阪で2年余り滞在したヒョンさんは、東京に行き日本大学工学部を卒業し、プラスチック製造会社を営んだ。「運命というのは不思議なものだ。先輩の1人が東京で洋菓子店をしていた。そこでアルバイトをしながら大学に通えたし、主人にまでなったのだから。『私たちは乞食ではない。私たちにはプライド(自尊心)がある』と言っていた私が、洋菓子で暮らしたとはね(笑)」

 夜陰に紛れて密航船に乗ったヒョンさんが、再び故郷の土を踏んだのは54年後の2001年だった。4・3抗争60周年行事が開かれた2008年にも済州を訪れ、済州4・3平和公園の位牌奉安所を見て回った。

 「位牌奉安所に行ってみると、ある人は犠牲者と認定され位牌を祀られ、ある人は祀られなかった。4・3問題を完全に解決しようと言いながら、犠牲者に差別があってはならない。皆が犠牲者として祀られなければいけない」。ヒョンさんの願いはいつ叶うのだろうか。

ホ・ホジュン記者 (お問い合わせ japan@hani.co.kr )
https://www.hani.co.kr/arti/society/area/864905.html韓国語原文入力:2018-10-08 15:16
訳J.S

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