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徴用訴訟遅延、被害者たちの怒り…「判事と大統領がこうしたって本当ですか?」

登録:2018-08-18 00:13 修正:2018-08-18 06:30
「勝利が決まった闘い」と信じたのに
「日帝強制徴用裁判の取り引き」で
70年の待望を裏切った裁判所に
「願いは死ぬ前に謝罪を受けること
国が私たちを助けてくれないならば
誰が私たちを助けてくれるのでしょうか」

 光復(解放)73周年を翌日に控えた14日、検察は2013年12月「朴槿恵(パク・クネ)大統領府-最高裁-外交部」が一堂に会して、日帝強制徴用被害者が日本の戦犯企業を相手に提起した訴訟を遅延させることに「合意」した情況を捕らえたと明らかにした。 実際、訴訟は足掛け5年も最高裁で足止めを食らっている。 下級審裁判もストップしてしまった。 その間に被害者は一人二人と亡くなった。 痛恨が極に達した徴用被害者と遺族の声を聞いてみた。 長い年月が過ぎたが、彼らの傷は癒えていない。

不二越勤労挺身隊動員被害者キム・ジョンジュさん=「太平洋戦争被害者補償推進協議会」提供//ハンギョレ新聞社

■受難の姉妹

 「今度もだまされることになる」。

  2013年2月、韓国の裁判所で戦犯企業不二越を相手に訴訟を起こそうという弁護士の話にキム・ジョンジュさん(87)は手を振って断った。 過去10年間日本の裁判所で不二越と戦っても最高裁へ行って結局敗訴したキムさんは疲れ切っていた。「他のお年寄りの方たちも勝ちました。 絶対そんなことにはならないでしょう。 私どもがお手伝いしますから」。弁護士の説得にキムさんは裁判所の門を叩いた。 彼女が生涯最後の戦いを決心した時だった。

 キムさんにとって13才以後は生涯が戦時状況だった。 1944年5月、姉のキム・ソンジュさん(90)が三菱に連れて行かれた。 翌年2月、「姉さんに会えるようにしてやる」という日本人教師の話に家を出たのだが、着いた所は旋盤を作る不二越工場だった。 背が140センチしかないキムさんはリンゴ箱の上に立って終日仕事をした。 夜が明ける前が一番暗いように、解放前の最後の冬はとりわけ寒かった。足が冷えて眠れないので履物を履いたまま寝たが、“おかげで”夜中に空襲音がすれば他の人たちより早く避難することができた。 同じ時期、姉は三菱工場で青春を送った。 受難の姉妹であった。

 日本軍“慰安婦”も勤労挺身隊も区別されていない時代だった。キムさんは「汚い」という言葉を名前の3文字よりももっとたくさん聞いたと言った。 結婚生活は6年も経たないでだめになった。夫に奪われてしまった長男は胸の中にくびきとして残った。

 当初韓国の裁判所は彼女を「だましは」しなかった。 2014年10月ソウル中央地裁は不二越がキムさんに1億ウォンを賠償するようにと判決した。 約70年ぶりの勝利だった。 民事訴訟の裁判は毎回数十分もせずに終わったが、キム氏は裁判所に行く日が待たれた。

 しかし、それ以後の裁判は4年目になっても答がなかった。 2016年5月に予定されていた控訴審宣告期日はついに指定されなかった。「どうして裁判が進まないんですか」と聞くと、初めは「少しだけ待てば大丈夫です」と答えていた弁護士たちは「裁判所から何も言ってこないんです」と頭を下げた。 今度は彼女を裁判所に導いた弁護士が“罪人”となった。

 「我が国の判事様と大統領様がこのようにしたって本当ですか?」

テレビのニュースは「裁判所が裁判をわざと遅延させた」と伝えた。 その間に判事たちは海外に出て行ったと伝えた。 キムさんは信じることができなくて何度も何度もニュースを見た。「裁判が“たかが4年”延ばされたと言うんですか?  私は70年を待ちました。 またもだまされた気がします。 我が国が私たちを助けてくれないならば、どこの国で助けてくれますか?」

三菱勤労挺身隊動員被害者ヤン・グムドクさん=「勤労挺身隊のハルモニと共にする市民の会」提供//ハンギョレ新聞社

■守られなかった約束

 このごろヤン・クムドクさん(87)の電話のベルはまったく鳴らない。 063(全北)、062(光州)、061(全南)。 あちこちの地域番号が入力された携帯電話はヤンさんと同様“老衰”していた。「生きているうちに三菱から謝罪の一言を必ず聞きましょう」。  2012年末、しわくちゃになった手を握りしめて訴状に一緒に名前を上げたハルモニ(おばあさん)たちの健康が一人二人と悪化し、互いにやりとりしていた通話も難しくなったのだ。 連絡を取り合うことも間遠になってヤンさんの一日は長くなったが、余生は空しく短くなった。

 1944年5月、小学校6年生のヤンさんは三菱工場に動員された。「中学校に行かせてやる」という日本人の担任教師の約束は嘘だった。 1年5カ月を暗い飛行機工場で送った。 食べる物がなくて日本人が食べ残した物をあさるのが日常だった。

 「今まで流した涙だけでも、船を一隻浮かべて余りあると思います」 2012年末、三菱を相手に損害賠償訴訟を起こして書いた訴状を光州(クァンジュ)地裁に提出し、ヤンさんは一生胸のうちにしまいこんでいた言葉を吐き出した。 同年5月、他の徴用被害者たちが先に起こした訴訟で最高裁が賠償責任を認めたという消息を聞いて力付けられた。 訴訟を起こして1年後の2013年11月、裁判所が初めて三菱の敗訴を宣言した。 三菱が控訴したが、2015年6月光州高裁も1審が正しいと判決した。 ヤンさんは2009年に光州で先に亡くなった被害者キム・ヘオクさんの墓を訪れた。「ここに眠っていてもあんたの分まで勝ってあげるから、少しだけ待っていて」。

 だが、2015年7月に最高裁に受付けられた裁判は足踏み状態だった。 彼女の約束は守れないまま3年目に入っている。 ヤンさんは「面目がなくて」キムさんの墓にもう一度訪ねていくことができないでいる。「私は他に望むことはありません。 三菱が過ちを犯したと、死ぬ前に認めてもらいたいのです。 金を受け取ったら私のように学校に行けなかった子供たちに送ってあげたいです。 判事様がしなければ誰がしてくれますか?」 ヤンさんは今日も鳴らない電話機をとめどなく見つめる。

■失った18年

 故パク・チャンファン(1923-2002)。 1944年広島に連れて行かれた。 鉄条網で囲まれた三菱工場で夜昼なしに働いたが、受取ったお金は毎月20円。それさえも一部は「貯金」の名目で取られてしまった。 翌年核爆弾がさく烈して顔も潰れてしまった。 故郷に帰ってきたが、パクさんの手で耕していた3000坪余りの農地はすでに廃虚になった状態だった。 壊れてしまった人生にパクさんは戻ってきた。 心筋梗塞で亡くなる2年前、三菱を相手に訴訟を起こした。

 息子のパク・チェフンさん(72)は、訴訟を受け継いで初めて父の人生を理解するようになった。 記憶の中の父はいつも病弱だった。 軽い咳はほどんど毎日続いたし、膿のためによく眠れなかった。 強制動員の後遺症との戦いだった。 三菱にその責任を問うのは父の遺言も同然だった。

 2007年2月、原告敗訴(釜山地裁)。 2009年2月、控訴棄却(釜山高裁)。

 遺言は永らく守ることができなかった。 そうして2012年、初めて最高裁が彼らに軍配を上げてくれたとき、パクさんは12年ぶりに笑った。 静かに父の墓を訪ね、父に判決文を読んであげた。

2013年9月、事件が訴訟手続きにより最高裁に受付けられた。 パクさんはいつのまにか父と同じぐらい老いてしまった。 耳がよく聞こえず挙動も大変だ。「判事様がちゃんと判断してよい判決を下してくれるだろうと思っていましたよ」。チェフンさんは気になる点が多かったが、5年間その疑問符をじっと飲み込んでいた。

 「裁判取り引き」の疑惑が持ち上がった最近になって、初めて疑問が解けた。「いっそのこと初めから勝訴判決を出さなかったら良かったと思います。 一度勝たせておいて、18年を待たせたわけじゃないですか。 勉強ができて判事なったという人たちが日本人より劣ってるんじゃないですか。 遠からず父に会うことになる時、良い便り一つくらいは持って行くべきでしょう」。受話器の向こうのパクさんはもう一度涙を飲み込んだ。

ヒョン・ソウン記者 (お問い合わせ japan@hani.co.kr )
https://www.hani.co.kr/arti/society/society_general/857658.html韓国語原文入力:2018-08-15 05:00
訳A.K

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