2004年、26歳でKTX(韓国高速鉄道)乗務員になった女性は14年後、8歳と6歳の2人の子どもの母となっていた。彼女にとって20代後半と30代は「闘争の時間」だった。
入社当時、韓国鉄道公社(KORAIL)が約束した「2年以内の正社員転換」は守られなかった。2006年3月、乗務員らは直接雇用を求めてストを行い、2カ月後、280人が一気に整理解雇された。解雇された乗務員らは、ソウル駅前でテントを張り、近くの鉄塔に登って高空座り込みを展開した。労働者地位確認訴訟を起こし、1審と2審で勝訴したが、2015年に最高裁判所(大法院)で突然原告敗訴判決を言い渡された。この結果を聞いたある解雇乗務員は、3歳の子どもを残し、自ら命を絶った。今年5月になってようやくヤン・スンテ元最高裁判所長時代に裁判所行政処がこの判決をめぐり、大統領府との取引を図った情況が明らかになった。
2007年から2009年まで鉄道労組KTX乗務支部長を務めたオ・ミソンさん(39)は22日、ハンギョレとのインタビューで「最高裁の判決直後が最もつらい時期だった」と振り返った。当時、彼らは1審と2審での勝訴で受け取った4年分の「不当解雇期間中の未払い賃金」と年間15%の法定利子を合わせた約1億ウォン(約1千万円)を返却しなければならなかった。
「いきなり多額の借金を負い、とても大変だったんです。仮差押え通知書が届き、予告もなく執行されるかもしれないと言われました。郵便物が届く度に眠れませんでした。特に家族に申し訳ないと思いました」
解雇された280人のうち、これまで闘い続けてきた人は33人だ。スト経歴が再就職の足かせとなり、数年間の失業期間を隠すこともできなかった。オさんは「たまにフリーランサー講師の仕事をする人もいるが、ほとんどが仕事を見つけられず、経済的に苦しんでいた」と話した。同僚の中にはKTXに乗るたびに薬を飲む人もいたという。
26歳で入社、2年で解雇
8歳、6歳の2人の子どもの母に
20代後半~30代の闘争の時間は
汗まみれのTシャツに帽子をかぶった姿の記憶だけ
鉄塔の座り込み、1、2審は勝訴したのに…
最高裁の会社勝訴の判決後
通知書が来るたびに眠れず
朴槿恵政府の司法壟断の最大の被害
亡くなった友達の名誉回復のためにも
真実解明されるまでこれからも闘う
幸いにもオさんは家族が支えだった。両親は嫌な顔もせず、オさんを見守ってくれた。直接雇用の合意を勝ち取った21日午後、夫は「これまで苦労したね」とねぎらいの言葉をかけてくれた。2008年8月、オさんがソウル駅の鉄塔に上った際、当時交際していた夫がオさんに内緒で遠くから見守っていたことも、同日初めて知った。当時、オさんは気が弱くなることを恐れ、彼氏の“慰問”を許さなかった。
「既婚者の中には、マスコミに顔が出るのを夫に反対されたり、義父に『最後の願い』だとしてやめてほしいと言われる場合もありました。だから多くの人が参加できませんでした」
オさんは、あるインタビューで「20代を振り返ってみると、汗まみれのTシャツに深く帽子をかぶった姿が思い浮かぶ」と語ったことがある。その時は何の成果もなく、時間だけが空しく流れてしまったと思っていたという。
「いつも『解雇された乗務員』というレッテルを貼られていたが、振り返ってみると、乗務員として働いたのは2年2カ月だけです。過ぎ去った時間については何も補償されていません。20代の時に思い描いていた格好いい会社員の姿、そんなふうになったことが一度もありませんでした。首に社員証をかけている人たちを見ると、いまだに羨ましいです」
オさんに今回の合意に満足しているかと尋ねた。「『闘争の時間』はまだ終わっていない」という答えが返ってきた。
「これまで12年間、生命・安全業務を担当する乗務員は会社が直接雇用すべきと主張してきたが、受け入れてもらえなかったのは残念です。しかし、非正規労働者の正社員化措置には大きな意味があると思います」
彼女はさらに、「(これまで)あまりにも長く闘っており、中間合意点が必要だった」とし、「いったん会社に復帰して転換配置に向けて闘わなければならないと考えている」と話した。特に、「朴槿恵(パク・クネ)政権の『司法壟断』の最も大きな被害者として、死亡した友達の名誉を回復するためにも、真実が明らかになるまで闘い続ける」と力強く語った。