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[インタビュー]「2万人の“良心”の苦しみが今回の憲法裁の判決で終わることを願う」

登録:2018-06-28 07:31 修正:2018-06-28 10:05
「良心的兵役拒否」オ・テヤンさんの願い 
 
「仏教徒として兵役拒否した2001年 
すでに1万以上の青年が刑務所に行き 
これまでまた1万人が苦しめられた 
銃を持たないという信念を抑圧せず 
刑務所ではない他の選択肢与えるべき」
憲法裁判所が「良心的兵役拒否」を処罰している兵役法条項が違憲かどうかを決定する前日の27日午後、韓国社会で初めて公開的兵役拒否を宣言したオ・テヤン我が未来党非常対策委員長が、ソウル瑞草区事務室で「平和」と書かれた白い鐘を見せている=キム・ソングァン記者//ハンギョレ新聞社

 「私は良心的兵役拒否者第1号ではありません。私の前に1万人がいたし、その後にも1万人がいます」

 「良心的兵役拒否」を処罰する兵役法条項に対する憲法裁判所の決定を翌日に控えた27日午後、ソウル瑞草区(ソチョグ)の青年政党「ウリミレ(我が未来)」事務室で会ったオ・テヤンさん(43)は「第1号」という言葉を拒否した。宗教的理由で、信念に従い銃を持たないという青年が2万人以上も処罰を受け、偏見に苦しめられている現実の中、マスコミが注目する「良心的兵役拒否者第1号」という呼称は烙印であり、抜け出したい首枷だったと、彼は語った。

 同日、(事務所で)ハンギョレ記者を迎えたオさんの表情は穏やかだった。しかし、17年待ってきた決定を控えた彼の気持ちまでは穏やかではなさそうだった。「2万人が2年ずつ刑務所暮らしをしたとすると、4万年です。4万年も待ったなら、十分ではないかと思います」。彼は公開的に兵役拒否を宣言した2001年にも、この問題が簡単に解決するとは思っていなかった。いばらの道を歩く若者たちが落ち葉のように積み重なり、ようやく道が作られると思って、その落ち葉の一枚となった。4万年という時間が落ち葉のように積み重なり、憲法裁の判断を待っている。

 彼が人生をかけて「良心的兵役拒否」という決定を下すのに、最も大きな影響を与えたのは、この問題を取り上げた「ハンギョレ21」の記事だった。2001年2月、「ハンギョレ21」には銃を持つことを拒否し、刑務所に行くことを選ぶ「エホバの証人」の信徒たちの話が掲載された。「信徒たちの話を聞いて衝撃を受けました。宗教的信念を守る人たちを機械的に前科者にする現実が、これだけ多くの人々が刑務所にいくにもかかわらず、いかなる問題意識も持たない韓国の司法の正義が理解できませんでした」。彼はエホバの証人の信者ではない。しかし、良心の命令に従った彼は、2001年12月の入隊日に訓練所の代わりに兵務庁を訪れ、入営拒否の意思を明らかにした。マスコミは彼に注目し、「良心的心的兵役拒否者第1号」と呼んだ。そして17年が過ぎ、2万人の青年を刑務所に送った「兵役法第88条1項」に対する憲法裁の3度目の判断が下される予定だ。

韓国社会で初めて公開的に良心的兵役拒否を宣言したオ・テヤン我が未来党非常対策委員長が今月27日午後、ソウル瑞草区事務室で、ハンギョレとインタビューを行っている=キム・ソングァン記者//ハンギョレ新聞社

 彼は兵役拒否宣言後、自らの人生の軌道を修正せざるを得なかった。良心的兵役拒否の“象徴”となった彼の一挙手一投足は、それ自体が社会の変化を求める運動だった。「兵役拒否をした後、自ら代替服務をするという気持ちで低所得層の子どものための勉強部屋で活動し、一人暮らしの老人のための無料給食所で働きました」。しかし、世間の視線は冷たかった。彼に対する記事がポータルサイトに掲載されると、彼を攻撃する書き込みが数千件も続いた。討論会と講演場を訪れ、大声を出したり、ペットボトルを投げつける「アンチファン」もできた。「ある日は一人暮らしの年寄りの方にご飯を配っていましたが、トレーを投げながら、『売国奴によそってもらったご飯は食べられない』と叫びました」。教育大学を卒業した彼は2004年に懲役刑を言い渡され、先生になる夢も諦めざるを得なかった。あまり変化の兆しのない世の中で送った17年は、彼に少なからぬ傷跡を残した。

 しかし、彼は「(兵役拒否宣言は)人生の重要な“ターニングポイント”だった」とし、「その決定を後悔したことは一度もなかった」と強調した。仏教信者として生きてきた彼は「不殺生」という教えを忠実に守りながら生きてきた人生に満足していると話した。異なる考えや哲学、信念を持っている人々を抑圧しない社会を作るのに力を添えてきた自分の人生を肯定した。

 時々接することができた支持と理解の声は、これまでの17年間を支えてくれた原動力だった。彼は、職業軍人の同級生からの電話をまだ覚えていると話した。彼の同級生は、イラク戦争に派兵される前日に電話をかけてきて、「私は君の考えには同意できない。しかし、君の選択は支持する」と話したという。オさんの気持ちも同じだった。「私も派兵には反対でした。しかし、その友人の選択は尊重しました。その過程で、多様な人々が共存できるという可能性を見出しました」と語った。

 兵役法違反で例外なくされた刑事裁判の過程でも、平和の動きを感じることができた。彼の刑事裁判が行なわれた2004年5月、イ・ジョンヨル弁護士(当時判事)は、別の兵役拒否者の1審裁判で史上初めて無罪を言い渡した。懲役1年6カ月という「正札制の判決」が続いた当時には想像できなかった革命的変化だった。「その時、司法府でクーデターと囁かれるほどだったと聞きました。憲法裁の態度が変われば、その変化の始まりにはイ・ジョンヨル弁護士がいると思います」

 彼は、憲法裁で17年前の自分のように勇気を出してほしいと要請した。そして2年前に、兵役を拒否するという息子を持つ母親との通話した内容を紹介した。「私はその母親に『兵役拒否者として生きていくのはすごくつらかった。息子にまだ若いから、一生その道を行ってもいいか、もっと考えてみるようにと言ってくれ』と引き止めました」。オさんは青年たちがこれ以上犠牲にならないことを望んでいる。「もう十分です。青年に置かれた選択肢が“過酷な軍隊”と“さらに過酷な兵役拒否以降の人生”ではないことを願っています」

チョン・ファンボン記者、イ・スンジュン「ハンギョレ21」記者(お問い合わせ japan@hani.co.kr)
https://www.hani.co.kr/arti/society/society_general/850925.html韓国語原文入力:2018-06-28 00:31
訳H.J

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