北朝鮮の金正恩(キム・ジョンウン)労働党委員長の電撃的な中国訪問で、4月末の南北首脳会談と5月の朝米首脳会談を控えた北東アジア情勢がより躍動的に変わっている。朝中首脳会談に続き、史上初の南北首脳会談と朝米首脳会談の目前にまで達し、朝鮮半島冷戦体制の解体の決定的な機会だった2000年を想起させる。
金正恩委員長の中国訪問は、多くの面で父親の金正日(キム・ジョンイル)総書記の2000年5月の訪中と似ている。金正日委員長は、第1回南北首脳会談を半月後に控えた2000年5月29日、1泊2日の日程で極秘に中国を訪問し、江沢民主席ら中国指導部と数回にわたって会談したことがある。これで1992年8月の韓中国交正常化以後傾いていた朝中関係は全面復元された。
当時も金正日総書記の専用列車が北京で目撃されており、国賓の宿舎である釣魚台に国旗を掲揚していない高級乗用車数十台が厳重な警護を受け出入りする場面も公開された。しかし、中国当局が公式確認をせず、金委員長訪問の事実は後になってようやく確認された。
朝中関係修復に続く史上初の南北首脳会談で、朝鮮半島に和解の雰囲気が造成され、金正日総書記は朝米対話に積極的に乗り出した。2000年7月、ドイツ・ベルリンで朝米外相会談予備接触に続き、同月タイ・バンコクで開かれたアセアン地域フォーラム(ARF)で、マデレーン・オルブライト米国務長官と北朝鮮のペク・ナムスン外相の会談が実現された。
その後、同年10月9~12日、当時北朝鮮国防委員会第1副委員長だったチョ・ミョンロク副委員長が、金正日総書記の特使として米国を訪問し、ビル・クリントン大統領に会った。朝米双方は、敵対関係の終息▽平和保障体制の樹立▽経済交流・協力▽核・ミサイル問題解決などを骨子とした「朝米共同コミュニケ」に合意し、オルブライト長官が10日後、平壌(ピョンヤン)を訪問し金正日総書記に会った。
だが、手に入りそうだった朝米首脳会談は、同年11月、米大統領選挙で保守強硬派の支援をバックにしたジョージ・ブッシュ大統領が当選したことで取り消された。当時、訪朝首脳会談を準備したクリントン大統領はバラク・オバマ政権時代の2009年8月になって、抑留された米国人女性記者の釈放のために平壌を訪問することができた。
2011年12月の金総書記の死去後にも、朝中の関係は順調でない道を歩んできた。特に昨年の「4月危機説」を前後に、中国が国際社会の対北朝鮮圧迫への協力に参加すると、北朝鮮は「朝中関係の『レッドライン』を越えている」、「破局的な後影響も覚悟しなければならない」などの露骨な非難を浴びせた。これに対抗して中国外交部も「公正な立場」から朝中関係を処理したと反論し、「北朝鮮の核開発は中朝相互援助条約違反」という主張が中国のメディアに登場するなど、中朝間の舌戦が危険水位を行き来した。悪化の一途をたどった中朝関係は、金正恩委員長が中国側に送った祝典内容の変化にも現れている。金委員長は2016年6月30日、中国共産党創建95周年に際し、習近平主席に送った祝電で「長い間歴史的な根を持つ朝中親善」を強調した。しかし、朝中関係が破裂音をあげた昨年10月25日、中国共産党第19回大会を記念して送った祝電では「両国間の関係が両国人民の利益に合わせて発展すると確信する」と書いた。伝統的な血盟である朝中関係を“利益”を分ける隣国程度に格下げしたたのではないかと指摘されたのもこのためだ。ク・ガブ北韓大学院大学教授は「1990年代の最悪の食糧難によるいわゆる『苦難の行軍』を経て、最悪の状況に陥った朝中関係が、金正日総書記の訪中で解け、2000年の朝中、南北、朝米関係が好循環の構図を成した」とし、「北朝鮮が最悪の状況に至った朝中関係を南北首脳会談と朝米首脳会談に先立ち復元させたのは、北朝鮮版『等距離外交』宣言であり、北東アジア各国が18年前に逃した冷戦体制解体の決定的な機会が再び作られたということ」と話した。