3. あの時はジェクスキス、ピンクルが平壌で公演した
1世代アイドルグループのジェクスキス(略称:ジェッキ)とピンクルの共通点の一つは、平壌で公演した歌手という点です。1999年12月5日、平壌の烽火芸術劇場で開かれた「2000年平和親善音楽会」(SBS録画放送)は、分断後に韓国の大衆歌手が北朝鮮で歌った初めての公演でした。北側からは歌「口笛」で有名なチョン・ヘヨンと人民俳優たちが出演し、南側からはぺティ・キム、テ・ジナ、ソル・ウンド、チェ・ジンヒ、ジェクスキス、ピンクルが出ました。
歌手の所感もまた格別でした。公演を終えてソウルに帰ってきたジェクスキスのメンバーたちは、「平壌で行動したり話すことが思ったより自由にできた。公演でも雰囲気は多少重かったが、歌を歌った後にスタンディングオベーションを受けて感無量だった」と話しました。
この音楽会を皮切りに、しばらく地上波の放送会社は競うように訪朝公演を推進しました。2002年にはMBCが主催した歌手イ・ミジャとユン・ドヒョンバンドの公演が東平壌大劇場で開かれました。特にユン・ドヒョンバンドの公演「オー! 統一コリア」は唯一無二、韓国と北朝鮮全域に同時生中継されました。ユン・ドヒョンさんは当時の公演で、北朝鮮の観客に向かってしっかりこのように話しました。
「本当にとても意味深い公演に参加することができてとてもうれしい。言葉で表現できないほど胸が熱くなる。初めてこちらに来て、私たちの音楽が多少聞き慣れないために騒々しく聞こえるでしょうが、あまり気にしないでください。私たちは同じ韓民族で…(客席笑い・拍手)こちらの言葉で「遊ぶ鳥の群れ」(韓国のオレンジ族と同じ意味の北朝鮮の言葉)と考えて下さい…(客席笑い)ほほえましく見て下さればありがたい。拍手と応援をたくさんいただだければ、よりいっそう熱く公演します」
訪朝公演関連の仕事で北朝鮮を30回余り往来し、2005年に「チョ・ヨンピル平壌コンサート」も企画したオ・ギヒョンSBSディレクターは、2015年のハンギョレとのインタビューで「北朝鮮社会にものすごい衝撃を与え、北側の人々が最も多く覚えている南側の歌手はユン・ドヒョンさん」と伝えました。
この他にも神話(シンファ)、Baby V.O.X、キム・ヨンジャらが北朝鮮で公演し、2003年8月11日にはKBS「全国のど自慢平壌編」が平壌の牡丹峰(モランボン)公園平和亭前の野外舞台で開かれもしました。
4. あの時は北朝鮮の応援団員がイ・ヒョリと広告を撮った
「ミョンエさんはとてもきれいです」、「ヒョリさんもきれいです、髪も染めて…」
2005年9月12~13日、中国の上海でサムスン電子の携帯電話エニーコールの広告「一つの響き」編の撮影が行われました。広告の主人公は、当時最高の人気を博した歌手のイ・ヒョリと北朝鮮万寿台芸術団所属の舞踊家チョ・ミョンエさん。チョさんは2002年、釜山アジア競技大会に北側の応援団として来て、大きな関心を集めた人で、いわゆる「北朝鮮美女応援団」を代表する顔でした。
広告は二人のぎこちない初めての出会いで始まります。「お年は」というイ・ヒョリの質問に、チョ・ミョンエさんが「81年生まれ」と答えると、イさんは「私は79年生まれ、私が姉さんだね」と言って喜びます。広告の白眉は、二人が一緒に上がったコンサートの舞台。手をつないで「いつかまた会える」と歌う二人の後に、大きな朝鮮半島の旗が広げられます。分断体制が解消されない限り、再会は容易でない二人の短い出会いには多くのことを考えさせます。
最近この広告が再び注目をあびています。平昌五輪に北朝鮮の代表団派遣が表面化し、北朝鮮応援団が訪問するかどうかも関心を集めているためです。北朝鮮は2002年の釜山アジア競技大会に初めて300人規模の応援団を送り、2003年の大邱(テグ)ユニバーシアード、2005年の仁川(インチョン)アジア陸上選手権大会に続き、2014年仁川アジア競技大会にも応援団を送りました。
チョ・ミョンエさんの他に北朝鮮応援団として有名になった人は、北朝鮮の金正恩(キム・ジョンウン)労働党委員長の夫人のリ・ソルジュさんです。1989年生まれと知られた彼女は、2005年仁川アジア陸上選手権大会に青年学生協力団として参加し、北朝鮮の選手たちを応援し三回の公演をしたことがあります。
5. あの時は平壌でニュースを生中継した
2000年6月13日午前10時38分、平壌の順安(スナン)空港で金大中(キム・デジュン)元大統領が金正日(キム・ジョンイル)北朝鮮国防委員長と手を握りました。分断から55年ぶりに南北首脳が会った歴史的なこの瞬間を、南側でも1秒の遅れもなしにテレビで見ることができました。金元大統領の平壌着陸15分前に前もって到着していた合同放送団が、午前10時25分から直ちに生中継に入ったおかげです。2000年の南北首脳会談は、韓国国内の放送会社が平壌から生中継した最初の事例です。
どうしてそれが可能だったのでしょうか。南側から持って行った移動用衛星通信地球局の装備であるSNG(satellite news gathering)とムクゲ衛星3号が決定的な役割をしました。当時の報道を総合すれば、南側の写真記者が北側の中継車を利用して撮影した画面をひとまず北側の伝送方式から南側の方式に変換された後、SNGを通じてムクゲ衛星に送りました。衛星はこれをソウル広壮洞(クァンジャンドン)の衛星通信地球局に送り、韓国通信国際テレビセンター(ITC)に到着した画面は韓国の放送会社とソウルの小公洞(ソゴンドン)にあるロッテホテルプレスセンターに中継されました。こうした過程を経て、韓国国内はもちろん全世界で南北首脳の歴史的な出会いを生中継で見ることができました。
2007年10月2日の盧武鉉(ノ・ムヒョン)元大統領の訪北過程もやはりこうした方式で生中継されました。特に盧元大統領は、大韓民国の国家元首としては初めて軍事境界線を越えて陸路で移動したので、動線に沿った撮影が多くありました。韓国の放送会社は、合同中継車15台とヘリコプター2機を動員して、大統領府、光化門(クァンファムン)、江辺(カンビョン)北路、自由路、統一大橋、都羅山、通門など、訪北団が過ぎ行く瞬間を生中継しました。午前9時5分、盧元大統領が歩いて軍事境界線を越えた後、しばらく切れた生中継は12時頃に平壌4・25文化会館で盧元大統領と金正日北朝鮮国防委員長が会う瞬間に再開されました。
7年間で変わったこともありました。まずはカメラがアナログだった2000年と違い、2007年には初めてHDが動員されました。より鮮明な画質で歴史的な瞬間を目撃できるようになったのです。また、2000年には北側から韓国の放送会社への直接的な送出はできませんでしたが、2007年には南側中継車を使用することができました。