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南太平洋トラック島に閉じ込められた朝鮮人「慰安婦」被害者の悲しい歴史

登録:2017-12-11 20:57 修正:2017-12-12 07:59
ソウル市記録物事業で朝鮮人「慰安婦」被害者26人を確認 
フィリピン・マニラから帰ってきた33人の帰還名簿も入手 
「確認された被害者数にとどまらず積極的に発掘すべき」
トラック島の朝鮮人の写真資料に収めされたイ・ボクスンさんの姿=ソウル市提供//ハンギョレ新聞社

 1943年慶尚北道漆谷(チルゴク)で裁縫工場に通っていた17歳の少女は、もっとお金を稼げる工場を紹介するという言葉にだまされ、船に乗ってトラック島に連れていかれた。

 ミクロネシア連邦に属するトラック島(チューク諸島)は、太平洋戦争当時、日本海軍艦隊の主要基地であり、多くの朝鮮人が基地の建設などに強制動員された所だ。これまでトラック島で朝鮮人「慰安婦」被害者を見たという回顧は多かった。しかし、実際の慰安婦被害記録が史料で明らかになったのは今回が初めてだ。11日、ソウル市とソウル大学人権センターのチョン・ジンソン教授研究チームは、米軍の戦闘日誌、朝鮮人「慰安婦」被害者が帰還当時に乗った「生野」号の乗船名簿、帰還当時の写真資料、ニューヨークタイムズの記事などの資料を発掘し、トラック島に朝鮮人「慰安婦」被害者26人がいた事実が立証されたと明らかにした。イ・ボクスンさんは1946年に「生野」号に乗り3年ぶりに帰ってくることができた。

イ・ボクスンさんが日本軍「慰安婦」として連れていかれ、帰ってきた際の移動経路=ソウル市提供//ハンギョレ新聞社

 米軍の戦闘日誌によれば、「生野」号に乗って本国に戻った1万4298人のうち3483人が朝鮮人で、そのうち軍人が190人、海軍労務者が3049人、民間人が244人だった。イ・ボクスンさんとともに朝鮮に帰還する船に乗った人の中には、朝鮮人「慰安婦」被害者26人と子ども3人もいた。

ハ・ボクヒャンさんの捕虜尋問カードと2001年当時のハさんの生前の姿=ソウル市提供//ハンギョレ新聞社

 今回の資料発掘では、これまで「慰安婦」被害者として公式に登録されていなかった他の被害者の存在も明らかになった。慶尚北道慶山(キョンサン)出身のハ・ボクヒャンさんは、1941年15歳の時に工場の働き口を紹介するという言葉にだまされて紹介人について行き、フィリピンのマニラで日本軍「慰安婦」生活を余儀なくされた。ハさんは「慰安婦」被害者としての登録が始まる前の2001年に亡くなり、被害の事実も闇に埋められた。

 しかし最近、ソウル大学人権センターの研究チームが確保したフィリピンに連れられて行った「慰安婦」被害者の捕虜尋問カードには、ハ・ボクヒャンさんが1945年9月14日にフィリピンのルソン島で米軍に発見され、ルソン第1収容所に収容され帰還船に乗った記録が残っていた。カ・プコという異なる名前だったが、研究チームがハさんの生前写真、十指の指紋を照らし合わせハさんの身元を確認した。

 第2のイ・ボクスン、ハ・ボクヒャンさんのような人はどれくらいいるのか?ソウル大学人権センターのパク・チョンエ教授は「日帝強制占領当時、警察が女性の強制動員をデマだとして強力に取り締まる雰囲気だったため、朝鮮人慰安婦が連れていかれた記録はない。しかし、解放後に帰って来た記録はある。30人余りの尋問カードを持っているので、今後も追加の被害者を確認できるはずだ。韓国政府は被害者として自主的に登録した239人にとどまらず、被害実態の調査に積極的に取り組まなければならない」と述べた。ソウル市は、来年1月に2年間推進してきた日本軍「慰安婦」記録物管理事業の結果を本にして出版する予定だ。

ナム・ウンジュ記者 (お問い合わせ japan@hani.co.kr )
https://www.hani.co.kr/arti/society/area/822991.html韓国語原文入力:2017-12-11 18:05
訳J.S

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