「慰安所で一日平均20人、多い日には40人まで日本兵を相手にする地獄のような生活をした。死ぬ前に日本の謝罪を受けなければとの思いで米国にまで行くことになった。私たちは今、お金を望んでいるわけではなく、彼らが犯した人権蹂躪と戦争犯罪行為に対して償わなければならない代価があることをを認識せよということだ」
2007年2月、米国下院で開かれた日本軍「慰安婦」聴聞会に出席し「慰安婦」の惨状を証言した慰安婦被害者キム・クンジャさん(91)が23日午前8時4分、京畿道広州(クァンジュ)市のナヌムの家で老衰のため死亡した。文在寅(ムン・ジェイン)大統領はこの日、フェイスブックを通じて「2015年12月31日ナヌムの家でおばあさんを尋ねた時『被害者は私たち』とおっしゃったその姿を覚えています。強靭な生存者、勇敢な証言者だったキム・クンジャさん、すべての重荷を下ろして天で安らかにお休みください」と哀悼した。
慰安婦被害が亡くなったのは今年に入ってから3人目だ。政府に登録された被害者239人のうち生存者は37人になった。
キムさんは1926年江原道平昌(ピョンチャン)で生まれた。10代で両親と死別し、17歳の時に家政婦として祖国を離れ中国吉林省の琿春慰安所に連れていかれた。数回にわたり脱出を試みたがすべて失敗に終わった。抵抗して殴られ左の鼓膜が破れたキムさんは、生涯左耳が聞こえなかった。
解放後に豆満江(トゥマンガン)を越えて帰国した。死ぬ思いで故郷に帰り、慰安所に連れていかれる前に結婚を約束した男性と再会したが、家族の反対でその男性は自ら命を絶ち、彼との間にできた娘は生後5カ月で亡くなった。その時から1998年にナヌムの家に来るまで一人で暮らした。
キムさんは、日本政府から公式謝罪と正当な賠償を受けることが願いだったとナヌムの家は明らかにした。故人は韓国政府から受け取った支援金に私費を加えて、「美しい財団」に1億ウォン(約1000万円)、ナヌムの家に1000万ウォン(100万円)、退村(トェチョン)聖堂に奨学金として1億5000万ウォン(1500万円)を寄付したことがある。2003年、政府が1965年の「韓日会談」の文書を公開しないと明らかにすると抗議の意思表示で国籍放棄申請を出しもした。
葬儀室は京畿道城南市(ソンナムシ)盆唐区(プンダング)のチャ病院地下1階特室に整えられた。出棺は25日、埋葬地はナヌムの家追悼公園だ。カン・ギョンファ外交部長官、映画俳優ユ・ジテさんもこの日葬儀室を訪れ弔問した。