「私に対する賛否を離れ、国民の皆さまの多様な意見を汲み上げて行きます。過去半世紀の間、極端な分裂と葛藤をもたらしてきた歴史問題を、和解と大蕩平策(党派間の均衡をはかる政策)によって断つよう努力いたします」(2012年12月、朴槿恵大統領当選人当選の辞)
朴槿恵前大統領の執権4年は、当選の辞で述べた約束とは正反対に疾走した時間だった。国内では、在任期間中、常に「私たち」と「彼ら」に分断する政治を進め、強硬で一方的な外交によって朝鮮半島を荒波に追い込んだ。国民の代議機関である国会を政府のイエスマンに転落させ、政治の「政争化」を引き起こし、何よりも国民の生命と安全を守る基本的な責務も遂行しなかった。
国民の命を守れなかった無能政府
2014年4月16日午前、大韓民国を衝撃と悲嘆に陥れたセウォル号沈没の惨事が発生したが、朴前大統領は午後5時15分になって中央災害安全対策本部に初めて姿を見せた。「生徒たちは救命胴衣を着ていたというのに発見するのがそんなに難しいのですか?」当時、事故状況さえちゃんと把握できていなかった朴前大統領は、海洋警察の解体後に国民安全処を新設するという対策をまとめただけで、責任者処罰と真相究明には消極的な態度で一貫した。セウォル号遺族を慰労するどころか、会談要求すら拒否し、「外部勢力が(遺族を)政治的に利用することがあってはならない」と、セウォル号特別法の制定や運営を事実上「妨害」したということが、キム・ヨンハン元民政首席秘書官の備忘録でも明らかになった。
セウォル号の惨事から1年後に発生した中東呼吸器症候群(MERS)問題は、朴槿恵政府の無能と無責任さを再確認させた事件だった。2015年5月20日、最初の感染者が発生した後、MERSが病院の救急室感染者を通じて四方に広がっていく間、朴前大統領の姿は見られなかった。朴前大統領は最初の確定診断患者が出てから6日目に国務会議の席で初めて対面報告を受け、6月3日になって大統領主宰の「MERS対応官民合同緊急点検会議」を開いた。MERSは公式的に終息が宣言された同年12月23日までに「186人感染、38人死亡」という悲劇を残した。朴前大統領は当時もその後もMERS事態について謝罪しなかった。
THAAD強行、外交空振り…不安定化した朝鮮半島
今年初め、釜山(プサン)の「平和の少女像」追加設置で激化した日本との関係悪化、中国のTHAAD(高高度防衛ミサイル)配備撤回要求などで、韓国外交は「四面楚歌」の危機に陥っている。中国の経済報復が激しくなっている状況でも、韓国政府はこれといった対策も打ち出せずにいる。衝突を招いた人物はまさに朴槿恵前大統領だ。朴槿恵政権は昨年7月、中国・ロシアの反対を押し切ってTHAAD配備を公式化した。ロシアと中国はこれまで、米国のミサイル防衛システムの一環であるTHAADが韓国に配備される場合、東北アジア地域全体の戦略的均衡が損なわれかねないとして強く反対してきた。両国に対する説得作業もせずにTHAAD配備が速戦即決で行われ、中国は社会・文化・経済など全方位的な圧迫策を駆使している。
2015年12月28日に妥結された韓日政府間の日本軍「慰安婦」合意は、朴槿恵政権の外交惨事として記録される。朴槿恵政権は、慰安婦被害者たちの反対にもかかわらず、日本に一方的に有利な「最終的・不可逆的な合意」を妥結してしまった。日本政府の公式謝罪と賠償を受ける機会を、韓国政府が先頭に立って遮断したということだ。
2015年の8・25南北高官級合意で雪解け期を迎えていた南北関係は、その後北朝鮮の核実験と長距離ミサイル発射、韓国政府の開城(ケソン)工業団地稼動全面中止措置などにより、2000年の6・15南北共同宣言以前の冷戦時代に回帰した。
1970年代に戻った民主主義の時計
朴前大統領を大統領職から引きずり下ろした決定的なきっかけは、「朴槿恵-チェ・スンシルゲート」だが、このような最悪の国政壟断が発生した背景には、朴前大統領の時代錯誤的リーダーシップが位置している。公的組織ではない「陰の実力者」に依存した統治は、執権初年の人事惨事で兆候を見せた。「手帳人事」、「不通人事」という評価の中、就任後1カ月間だけで5人の長官・次官候補が相次ぎ落馬した。また、首相候補者の中でキム・ヨンジュン、アン・デヒ、ムン・チャングク候補者は、人事聴聞会前に自ら辞任し、イ・ワング前首相はソン・ワンジョン前京南企業会長から金を受け取ったという疑いが提起され自主辞退した。一方、自分に不利な問題が発生すると、正面対応ではない他の問題に置き換える「局面転換政治」を主導してきた。政権の正統性の問題に飛び火しそうになった国家情報院によるインターネットのコメント書き込み事件の起訴は、チェ・ドンウク検察総長の「婚外子問題」に置き換えられ、「陰の側近チョン・ユンフェ」文書波紋の際には「文書流出事件」と糊塗し、危機を乗り切った。ウ・ビョンウ元大統領府民政首席秘書官の横領・職権乱用の疑いを監察していたイ・ソクス特別監察官を「機密漏洩」で攻撃したのも同じ脈絡からだった。
大統領選挙の過程で「100%大韓民国」を叫んだ朴前大統領は、就任後、統合進歩党解散、歴史教科書の国定化推進など、世論が激しく対立する事案にドライブをかけ、「2つの大韓民国」戦略を駆使した。朴前大統領の国政運営基調に反対する野党を「民生対政争」の構図で攻撃し、政治嫌悪を煽った。執権4年を貫通する「分断」政治は弾劾審判の最終段階まで続いた。朴前大統領の弾劾賛成・反対をもって「ろうそく集会」と「太極旗集会」が激しく繰り広げられているが、朴前大統領は弾劾反対集会を主催する「朴槿恵を愛する会」(パクサモ)側に感謝のメッセージを送っただけで、国論統合に向けたいかなる努力もしなかった。