登録 : 2016.12.22 22:52 修正 : 2016.12.23 06:50

どうして毎回こんなふうに終わってしまったのか

1987年 6月抗争の苦い帰結
大学生・ネクタイ部隊・労働者など
野党指導部に主導権渡してしまった

広場の声「憲法改正」では排除
二人の金氏「全斗煥の脚本」通りに分裂
結果的に軍部独裁の合法的延長

2016年朴槿惠弾劾後の「反面教師」
「広場の市民が主導権持ち続け
民主社会具現してこそ真の勝利」

上から4.19民主革命(1960)ソウルの春5.18民主化運動(1980)6月抗争(1987)ヒョスン・ミソン追慕ろうそく集会(2002)盧武鉉大統領弾劾反対ろうそく集会(2004)米国産牛肉輸入反対ろうそく集会(2008)朴槿惠大統領退陣要求ろうそく集会//ハンギョレ新聞社
 「直選制をやっても、まあ、勝てるんじゃないか?」

1987年6月24日大統領府。大統領全斗煥(チョン・ドゥファン)が民正党代表の盧泰愚(ノ・テウ)を呼んでこう言った。「どういうことですか?直選制で勝つですって?」金大中(キム・デジュン)を赦免復権させれば金大中と金泳三(キム・ヨンサム)が二人とも大統領候補に出てくるから、勝つ手が生じるだろうという計算だった。ただし、効果を極大化するために盧泰愚が大統領と相談せずに独自に宣言し、後で大統領が追認する形式を取ることにした。 (ソ・ジュンソクの『6月抗争』(2011)から)

 二日後、民主憲法争取国民平和大行進(6・26大行進)が開かれた。全国33都市で当時としては歴代最大規模の同時多発デモが行なわれた。50万名が参加した6・10国民大会よりさらに多い130万名が街頭に溢れた。特に「ネクタイ部隊」と呼ばれる中産層とホワイトカラー労働者が6・10大会に続いて大挙参加した。全斗煥・盧泰愚は屈服する外なかった。

 6月29日、盧泰愚は、大統領直選制改憲、金大中赦兔復権など、時局収拾方案を発表した。盧泰愚は「脚本どおり」大統領府がこれを受け入れなければ全ての公職から退くと主張した。全斗煥は7月1日、盧泰愚の6・29宣言を大幅に受容すると明らかにした。これもまた「脚本どおり」だった。

 12月16日、大統領選挙で野党は負けた。6月抗争で辛うじて獲得した選挙で、それも長年の独裁を退けて16年ぶりに実施した国民の直接選挙でである。「かゆを炊いて結局犬にくれてやった」という国民の歎きが天をおおわんばかりだった。

 歴史が転換機を迎える度に、韓国の国民は広場に繰り出し権力に対坑した。しかしその結果は 「敗北の記憶」として残るのが常であった。1960年の4・19民主革命から1980年の5・18光州民主化運動、1987年の6月抗争まで、満足できる結実を結ぶことはできなかった。巨大な波はたちどころに静まり、そんな事があったのかと思うような平凡な日常が繰り返された。

 4・19と5・18は銃剣を押し立てた軍部のクーデターの前に膝を屈してしまったが、87年6月の抗争は油断した民主勢力が既成政権の欺瞞に遭った事例だ。特に憲法改正過程で国民は徹底的に排除されたし、野党勢力が分裂して軍部独裁の合法的延長に帰結した。当時有力な大統領候補群であった盧泰愚、金泳三、金大中は各自の代理人として8人の「憲法改正特別委員会」(8人政治会談)を構成し、追われるようにして改憲を推進した。憲法改正過程で国民の参加や討議はなかった。8人政治会談は7月31日に始まり一カ月後の8月31日に終わった。大統領の任期と資格、国会の権限強化など政治権力を巡る利害関係が中心議題だった。大統領国民召還制など国民が権力を直接牽制する制度はなかった。

 この会談に統一民主党代表として参加したイ・ヨンヒ元国会副議長は「大統領の任期が最大の関心事だった。与党は6年単任を、野党は5年単任を要求した。DJ(金大中)とYS(金泳三)が(一本化問題で) 争っていたので『兄さんお先に』『弟よ先に』の形で5年ずつしようと考えた」と語る。大統領の任期が5年単任に確定した改憲案が国民投票を経て10月29日に公布された。延世大のチョン・グァンソク教授(憲法学)は「憲法と韓国の民主主義:1987年憲政体制を中心に」という論文で、87年憲法改正作業の特徴を二つに分けて説明した。「第一に、憲法改正作業はもっぱら政権に任された。すなわち憲法が一種のエリート交渉の産物として誕生した。実際、国会は予定されていた地域公聴会を、与野党間で公聴会の場所及び講演者選定などの問題を巡り異見を見せ、一度も実施できなかった。第二に、憲法改正をもっぱら次期執権のための戦略的思考が支配した」。聖公会大のチョン・ヘグ教授(政治学)は「フランス革命の場合、人権宣言を作り上げて2年後の憲法にこれを反映させた。フランス革命の精神が憲法につながったわけだ。しかし87年6月抗争は運動だけで終わってしまい、宣言や憲法に連結させることができなかった」と評価した。

 6月抗争の時、民主勢力はどうして改憲論議に飛び込まなかったのだろうか。「民主憲法争取国民運動本部」(国本)の常任執行委員長を務めていたオ・チュンイル牧師はこのように回顧する。「大統領直選制を勝ち取った後、国本指導部は主導権を政界に渡してしまった。野党勢力の大統領候補である二人の金氏を信じ過ぎていた」。『87年6月抗争』の著者であるキム・ウォン博士(政治学)は「当時中産層は護憲撤廃と直選制を勝ち取るという民主主義制度の手続き性に関心を持ち、二人の金氏に代表される政治的“代理人”を通して自分たちの要求を貫徹しようとした」と指摘する。

 国本の組織局長だったイ・ビョンチョル氏(農民運動家)は「民主勢力は直選制獲得後に何をすべきか充分に準備できていなかった。独裁に対する嫌気や怒り、抵抗は大きかったが、具体的にどんな国を作るのか、そしてそれをどのように実現するのかというロードマップがなかった」と診断した。直選制獲得以後の具体的代案が不足していた人々は、大統領選の過程で急速に分裂した。国本の政策研究次長を務めていたファン・インソン氏(6月民主フォーラム運営委員長)は「合法的競争をすれば野党圏が勝てるという楽観論が支配的だったし、多様な勢力が集まったせいで求心力よりは遠心力がずっと大きく作用した」と指摘した。「候補者一本化」「批判的支持」「独自候補」に分裂する中で、民主勢力は独立的な中心に立つことができずに旧政治エリートの従属変数になってしまった。「結局国民の力で作り上げた変化の契機を軍部独裁政権の合法的政権延長に捧げてしまった」(ファン・インソン)。

 それだけではない。 金泳三と金大中は以後相次いで軍部勢力と手を握った。1990年1月、金泳三は大統領盧泰愚、新民主共和党総裁金鍾泌(キム・ジョンピル)と手を握って「3党合党」を宣言し、1992年に与党候補として大統領選挙に勝利する。金大中は1997年の大統領選挙で金鍾泌との候補者一本化に合意して当選した。イ・ヨンヒ元国会副議長は「87年にDJとYSが候補者一本化に成功して民主政府が立てられていたら、軍事政権をすべて退かせることができた。今日の我が国の運命は完全に変わっていたはずだ。どうしてあんな大統領が出てくることがあり得ようか。(朴槿惠政権の誕生は) 私にも責任がある」と言った。オ・チュンイル牧師は 「私が6月抗争の罪人だ」と言った。「(朴槿惠大統領が) 弾劾されても、油断せずに市民が主導権を持ち続けなければならない。新しい民主社会をどのように作るべきかを論議し続け、これを具現して初めて、真の勝利を完成することができる」。 2016年12月9日の国会での大統領弾劾決議以後も光化門(クァンファムン)のろうそくが消えない理由は、87年の広場での裏切られた記憶が強く残っているためではないか。

チョン・ウンジュ記者 (お問い合わせ japan@hani.co.kr)

韓国語原文入力: 2016-12-21 10:56

http://www.hani.co.kr/arti/society/society_general/775486.html 訳A.K

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