登録 : 2016.05.27 00:49 修正 : 2016.05.27 06:59

「死ぬことより恥ずかしく生きることを怖れた」

初めて公開された「5月日記」//ハンギョレ新聞社

27日未明、YWCAに残って抵抗
「弾丸が厨房のガラス窓を貫通し
突然背中に何かがガツンと打ち込まれた」

 死ぬことより恥ずかしく生きることを怖れた。キムさん(57)は1980年5月27日未明、戒厳軍の光州(クァンジュ)鎮圧の知らせを聞いても逃げ出さなかった。「市民学生闘争委員会」の広報担当だったユン・サンウォンさん(1950~1980)は26日夜、旧全羅南道庁舎から高校生を家に送りかえした。「私たちが戦うから君たちは帰って歴史の証人になれ」。女性も送り返した。だが、1980年当時、全南大の2年だったキムさんは、市民軍と共に「光州を守らなければならない」と考えた。

 キムさんは死を覚悟して戒厳軍に抵抗した300余人の市民軍のなかで、弾丸の破片を受けて負傷した唯一の女性だ。5月27日のその日、旧全羅南道庁で170余人(女性7人)が逮捕され、光州YWCAでは27人(女性2人)が逮捕された。そして23人が犠牲になった。

 キムさんは5・18抗争の初期には「自宅から一歩も出られなかった」と言う。二男二女の長女の彼女は、光州虐殺の消息を聞きながら、共に戦えないことを恥ずかしいと思った。戒厳軍が旧全羅南道庁から撤収すると、錦南路(クムナムノ)噴水台前の集会に加わった。そして5月26日、5回目の決起大会が終わり最後の抗争に参加した。「最後の光州を守る人を集めました。その時に残ったのです。(旧全羅南道庁前の)光州YMCAに全員が集まりました」

1980年の光州事件で全南大2年だったキムさんが26日、ソウルの自宅で戒厳軍の榴弾破片の傷跡を見せてくれた。キムさんは同日、「数年前、痒みがとまらない傷跡から破片が出てきたことがあった」と話した=キム・ソングァン記者//ハンギョレ新聞社

 彼女は市民軍と共に錦南路からほど近い光州YWCAに配置された。戒厳軍の鎮圧作戦が始まる前「光州市民の皆さん、私たちを忘れないでください」と絶叫する女性の声が光州の明け方の空気を切り裂いた。「私は銃は持ちませんでした。それでもそれ以前に恥ずかしい思いをしたので、最後の瞬間には恥ずかしくないようにしたいと思いました。おそらくその気持ちは、市民誰もがまったく同じだったと思います」。キムさんはYWCAで戒厳軍の銃弾の破片を受けて国軍光州統合病院に搬送された。まったく身動きできないほどの重傷だった彼女は、傷を治療しその年の7月3日に起訴猶予で釈放された。

 「デモはしない」という誓約書を書いて解放されたキムさんは、「5月の経験」を生々しく日記(写真)に記録しておいた。彼女は5月27日未明など5月の話を大学ノート10ページにわたり書いた。「一発の弾丸が厨房のガラス窓を突き抜けて、向い側の壁に突き刺さった、その瞬間、私たちは床に腹這いになった。無数に飛んでくる弾丸をどうやってすべて避けられようか。突然、背中に何かがガツンと打ち込まれ、鼻と口から血があふれ出た」(80年5月27日)

 キムさんは大学卒業後、コンピュータ関連会社を経て学習雑誌の会社で20余年にわたり仕事をし、昨年退職して第2の人生を始めた。「この頃、全斗煥(チョンドファン)氏の話が広く知られたためか、悪口ばかりが聞こえてきます。5・18を北朝鮮特殊部隊の仕業だなんて笑わせますね」。キムさんは「5月以後、平凡に生きていることに対する申し訳なさを感じてきた」と話した。キムさんは80年5月の36周年をむかえ、今まで公開してこなかった「5月日記」をハンギョレに公開するのも、「恥ずかしさ」のためだと説明した。

光州/チョン・デハ記者 (お問い合わせ japan@hani.co.kr )

韓国語原文入力:2016-05-26 22:34
http://www.hani.co.kr/arti/society/society_general/745588.html 訳J.S(1562字)

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