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[コラム]平和の道に咲く慰安婦ハルモニのキキョウ

慰安婦ハルモニたちの周りにキキョウの花が咲く=イリムニキ//ハンギョレ新聞社

<イ・ヨンスさんは抵抗すると管理者に電話のコードで電気拷問をされ、失神を繰り返した。キム・クンジャさんは日本軍将校の要求を断ると殴られ、右の耳の鼓膜が破れた。抵抗したチョン・ソウンさんはモルヒネの注射を強制的に打たれた。こうして蹂躙され気力が尽きると“廃棄”される。日本帝国主義(日帝)は植民地朝鮮を収奪し、朝鮮半島で民衆を収奪し、最終的には貧しい少女たちを収奪した。彼女たちはそのすべての矛盾を背負って性奴隷として引きずられて行かねばならなかった。その少女たちが九十を迎えている。彼女たちは今、世の娘たちを守るハルモニ(お婆さん)、命と平和を守るハルモニになった。>

 今年に入りソウルが最も寒かった11日夜、ソウル鍾路区の栗谷路(ユルゴンノ)2通り。身を切る寒さの中、数十人の大学生が野宿の座り込みを続け13日目になっていた。毛布の中に足と手を入れているが、寒さの中で顔は蒼白になっていた。何度か空に響いた笑い声とともに、彼ら彼女らの目が輝いていた。 星、凍土に降り注いだ小さな星のように。

 大学生の背後で機動警察10人余りが2列縦隊で並び、その後には機動隊のバスがエンジン音を出しながら排気ガスを吐き出していた。バスの中には無線機を持つ私服警察が睨みをきかしているのだろう。12・28合意の廃棄と「人に対する礼儀」を求める小さな横断幕が風になびいていた。未曾有の女性人権蹂躪を10億円で抹消しようとする者たちは、こうして若者たちを取り囲んでいた。平和を念願する少女像がいかにも寒く孤独に見えた。周りには現代的なビルが聳えているが、この国の凍土が変わることはなかった。

 ふと、ハルモニたちが血の涙を飲んで証言した、70年ほど前の朝鮮の状況が重なった。その時も日帝の手先は、娘たちを供出する実績を上げるため血眼だった。名家の者たちは、朝鮮の青年と少女を戦場に送りだそうと扇動したし、里長や区長など一線の附逆者(反民族行為者)らは、率先して村の女の子たちを騙して日本軍慰安所に送った。ちょうどこの日の昼、外交部の役人たちは一人身で暮らす慰安婦ハルモニをこっそりと訪ね、甘言でそそのかそうとしたとか。12歳の少女だったチョン・ソウンさん、16歳の少女だったイ・ヨンスさんを騙して日本軍性奴隷として引き渡した、あの里長のような附逆者。

 朝鮮人附逆者に、国民服に戦闘帽をかぶる日本人に引き渡されたイ・ヨンスさんは、慶州のある旅館前の小川のほとりで見た、清楚で実直なキキョウの姿を忘れることができない。ハルモニは平安道の安州を経て、中国の大連で軍用貨物船に乗せられ台湾に連れていかれた。ハルモニのその小さな花は、この船底の貨物室で踏みにじられ始める。「輸送中の船内では使用禁止」という警告は装飾用に過ぎなかった。イ・ヨンスさんはこうして蹂躙されたのだが、その花をいつまでも忘れることができなかった。五つの花びらには、故郷、母、父、友だちの面影が深く刻まれていた。

 偶然にも日帝の関東軍司令部は、ハルモニたちが連れていかれる3年前の1941年、朝鮮総督府に「キキョウ」2万本を注文した。16歳から19歳の経験のない朝鮮の女を指す暗号だった。総督府は総力をあげて娘の供出を始めた。里長、班長まで動員して山間僻地まで根こそぎにした。学校では教師たちが率先して「貧しいけど元気な子」を選別した。ソウルの方山初等学校のある日本人教師は、自分の組から6人の子供を送った。民間斡旋業者は「多い報酬、良い食事、気楽な仕事提供」と女性たちを騙した。

 日本軍の徴募目標値は軍人29人当り娘1人。計算通りなら30万人にもなる規模だ。本土の女性は供出対象にはならず、交戦中の現地女性は現地人の抵抗を招く恐れもあり、日本軍は植民地朝鮮に注目した。貨物車、輸送船に載せられた少女たちは“軍需物資”として分類された。台湾のある慰安所に着いたイ・ヨンスさんは抵抗した。管理者は電話機のコードで電気拷問を強いた。何回も失神を繰り返した。中国の琿春に連れていかれたキム・クンジャさんは、日本軍将校の要求を断ると殴られ、右の耳の鼓膜が破れた。抵抗したチョン・ソウンさんにはモルヒネ注射が強制的に投与された。

 こうして性奴隷にされたハルモニたちは1日平均30人、多い日は100人まで日本軍の相手をさせられた。常習的な暴力にも苦しめられた。ムン・オクチュさんは刀を持ち駆け寄る軍人から逃げ、落ちた刀でその軍人を刺し殺してしまった。ここまで蹂躙された挙げ句に気力が尽きれば“廃棄”される。「(モルヒネの)注射でさえ効果が出ないと思われると、むしろに包んで捨てしまった」(イ・オクプンさん)。中国牡丹江の戦線に連れていかれたカン・イルチュルさんは、腸チフスで高熱に苦しめられ日本軍の相手ができなくなると、軍用トラックに乗せられ山の中で捨てられた。日本軍がむしろでくるんで焼こうとしていた瞬間、天の助けで朝鮮人が現れ一命をとりとめた。敗走する際には証拠をなくすため虐殺した。防空壕に集めて爆弾を投げたり、故郷に戻してやると船に乗せ、その船を爆破することさえした。生き残った慰安婦が4人に1人しかいなかったのはそのためだった。軍人の生存率より低かった。

 幸い戻れたとしても、故郷はかつての故郷ではなかった。親戚は「一族の恥」と追い出し、隣人は「売女」と後ろ指をした。1991年8月、金学順(キムハクスン)さんが初めて自分の経験を証言した時、多少なり力のある者は「民族の恥」と切り捨てた。だからユン・スンマンさんは「まともな女になれない」自分を嫌悪して生きていくしかなかった。ノ・スボクさんやフンさんは帰郷を諦め、中国やカンボジアの現地で住み着いた。「結婚?とんでもない…」。ハルモニたちはそうやって自分たちを追い詰めていくほかなかった。

 それでもイ・ヨンスさの場合、女性として生まれウェディングドレスのベールをかぶれないのが悔しくてならなかった。還暦になった年に75歳のお爺さんと結婚した。心の中で咲くことがなかった花を、一度咲かせてみたかった。老人を選んだのは男性が嫌いだからだった。16歳で連れていかれたカン・イルチュルさんは10本の指に真っ赤なマニキュアを毎日塗った。「おしゃれをしたい年齢に連れていかれたのが悔しくて…」。ムン・オクチュさんは1993年に日本で証言した時、薄紅色チマチョゴリを着て報道陣の前に立った。日本の記者がその理由を尋ねた。「日本軍に蹂躙された少女の夢はまだこのお婆さんの胸中にあります」。ハルモニの代わりに韓国挺身隊問題対策協議会(挺身隊対策協)の担当者が返事をした。そこでナムヌの家でボランティアをするチェ・チョングォンさんは、2001年1月17日に「ウェディングドレスを着るのが一生の願い」だったハルモニのためにウェディングドレス着せてあげ、「若い新郎」たちと一緒にエバーランドに新婚旅行に行くイベントを斡旋した。

 金学順さんの初の証言以来、ハルモニたちは勇気を出した。キム・ドクチャさん、イ・ヨンスクさん、ファン・グンジュさん、ムン・ピルギさん、イ・ヨンスさんなどの証言が相次いだ。こうして世に出たハルモニたちは、過去のその自責から抜け出し始める。自分たちの恨みをはらすためではない。世の女性たちが再びあんな性奴隷の戦争犯罪の犠牲になってはならなかった。挺身隊対策協は1992年1月8日、初の水曜デモを開いた。ハルモニたちは当初はちぐはぐだったが、7回目から徐々にその中心に立ち始めた。

 韓国でも日本でも、為政者たちは、どうせ一回だけで終わるだろうと楽観した。「慰安婦」という致命的な恥を顧みず街に出て来ることなどできようか。ところが、それは錯誤だった。どれほどハルモニたちの恨みが大きかったのか、この地の娘たちを守りたいとするハルモニの意志がどれほど強かったのか、無知だった。ハルモニの叫びと行進は24年も続き、すでに世界じゅうに広がっている。1000回目となった2011年12月14日には9カ国43都市でデモが同時に行われ、24年目の1212回目のデモ(1月6日)には16カ国42都市の市民が共に行動した。

 1992年にアジア連帯会議が結成され、1996年に国連人権委員会は女性に対する暴力問題の特別報告書を採択し、1998年には組織的強姦、性奴隷、奴隷的取り扱いの慣行に関する特別報告書を採択した。国際労働機構は日本軍慰安所運営を性奴隷制と規定した。2000年には日本軍性奴隷戦犯女性国際法廷が開かれ、2007年には「慰安婦決議案」が米議会を通過した。

クァク・ビョンチャン先任論説委員//ハンギョレ新聞社

 世の苦痛は最終的に弱者に転嫁される。日帝は植民地朝鮮を収奪し、朝鮮半島で民衆を収奪し、最終的には貧しい少女たちを収奪した。彼女たちは、そのすべての矛盾を背負って性奴隷として連れていかれなくてはならなかった。その少女たちが九十になろうとしている。

 彼女たちは今、世の女性たちを守るハルモニ、命と平和を守るハルモニになった。彼女たちが女性人権の聖所として守ってきた栗谷路2通りの「平和の道」は、この地の若者たちが守るようになった。キキョウはそうして今も咲いている。平和の道の途中に少女像があり、その向い側には駐韓日本大使館がある。

クァク・ビョンチャン先任論説委員(お問い合わせ japan@hani.co.kr )

韓国語原文入力:2016-01-12 21:38

https://www.hani.co.kr/arti/opinion/column/725851.html 訳Y.B

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