登録 : 2015.08.15 16:48 修正 : 2015.08.16 07:47

陜川原爆被害者福祉会館近くの慰霊閣には1057位の原爆犠牲者の位牌が奉られている。6日、原爆被害者のお年寄りが位牌を見つめている=チャン・ソンハ氏提供//ハンギョレ新聞社
長崎県の軍艦島であった朝鮮人強制労働とその後に続く原爆被害の歴史を扱った長編小説『カラス』の著者ハン・スサン氏(69)が、5日から6日にかけ“韓国の広島”と呼ばれる陜川(ハプチョン)を訪ねた。韓国原爆被害者協会によると、原爆被害1世は現在2584人が生存している。しかしより大きな問題は2世だ。2002年に亡くなったキム・ヒョンニュル氏の奮闘により作られた韓国原爆2世患友会の様々な努力にもかかわらず、韓日両政府は今も2世の被害を認めていない。

韓国の被曝者数は世界で2番目
生存者2584人、平均年齢82歳
70年に及ぶ苦難に耐え抜いた彼らを
70周年の原爆犠牲者追悼祭が開かれた
陜川の福祉会館で会った

 陜川市内を流れる黄江(ファンガン)が音もなく闇の中に包まれようとしていた。8月5日夕方。黄江の川辺にある公園では、被曝70年を記念して非核・平和を求める公演が開かれていた。

 その日の早朝、陜川に向かう時に見たソウル・光化門(クァンファムン)の街には、「偉大な旅程。 新しい跳躍」「あなたが歴史であり未来です」という横断幕が、ビルの壁を覆った大型の太極旗(韓国国旗)と一緒になびいていた。連休だというのに高速道路はガランとしていた。ふと自分自身に尋ねてみた。私は今どこに行こうとしているのか。私が進もうとする道は決して“偉大な旅程”ではなかった。“70年の忘却”を探し求め、この70年に及ぶ辛苦を耐え抜いた韓国の原爆被害者に会うため向かおうとしていた。

 1945年8月6日に広島、9日に長崎に投下された原爆で4万人の韓国人が爆死し、3万人が重軽傷を負って帰国した。しかし、悲しいことに数万人というこの数字も、日本の市民団体や人権運動家による推定値に過ぎない。数万人もの私たちの国、私たちの民族の人たちが命を奪われたというのに、0000と表記されるだけで、千桁と百桁の数字さえもない。正確な数字も把握できないまま、いや、なにもしないまま私たちは70年を過ごした。

 4時間かけ陜川に向かう途中、同行した写真家に海印寺(ヘインサ)はどこにあるのか尋ねると、海印寺は「88高速道路」から高靈(コリョン)を抜けて行くというではないか。小学校の時から陜川・海印寺・八万大蔵経と一緒に覚え、陜川のどこかに海印寺があると信じて育った私はなんだったのか。

■ 被曝2世の心臓系疾患は一般人の89倍

 海印寺のない陜川で私を迎えたのはぐらぐら煮え立つような暑さだった。眩しい日差しが皮膚を焼くように照りつけていた。福祉会館を見回し、被曝者に会う最初の一歩を踏み出した。

 1996年に韓日両政府が基金を支援して設立された「陜川原爆被害者福祉会館」も、いつのまにか20年の歳月が過ぎた。長い沈黙の後に韓日両政府がそれぞれ40億円を出捐し、韓国の原爆被害者福祉事業に合意したのが1990年5月。しかし基金管理を大韓赤十字社に任せ、この福祉会館が開館するまではさらに6年も待たなければならなかった。

 林の中にある福祉会館は外観も内部も清潔だった。「すべて気楽で、自分の家も同然。よっぽどいい」。93歳のユ・グッジャさんは感謝の気持ちを、そう表現した。両親に連れられて広島に移り住み、18歳で結婚したユさんは被曝当時、4歳の赤ん坊の母親だった。

70周年原爆犠牲者追悼祭を終え参加者が平和祈願の紙飛行機を飛ばす様子=チャン・ソンハ氏提供//ハンギョレ新聞社

大腿部無血性壊死症という病気に罹り
人生を犠牲にした被曝2世ハン・ジョンスンさん
脳性麻痺の息子まで世話する二重苦
絶望の泥沼から手術を受けて立ち上がり
他の被曝2世患者のための活動開始

 93歳の年齢を感じさせないほどユさんはしっかりしていた。花柄の刺繍がされた白い麻で織ったチョゴリを着ていたユさんは、「本当にきれいですね」と私が語りかけると声を出して笑った。こんなきれいな服をどこで手に入れたんですかと尋ねると、ユさんしっかりした声で答えた。「私が買ったのよ。市場に行って私が選んだ」。療養院から市内まで一日3回シャトルバスが通うと言った。

 両国政府が努力した結実ではある。しかし残念でならない。定員110人の福祉会館には、現在も入院を希望する待機者が110人にもいる。

 陜川を流れる黄江の川辺にある野外公演会場で開かれている非核・平和の集会に向かった。

 エルサレムにあるユダヤ人虐殺記念館の名は、犠牲者の名前を忘れるなという意味の「ヤド・ヴァシェム」だ。今回の行事も「原爆被害者、あなたを記憶します」というスローガンを掲げている。

 深まる夏の夜、「作ります、核のない世の中」という行事で子供たちが歌う反核の歌が黄江の川辺の空に響いていた。

 ドイツのワイマール市郊外にあるブーヘンヴァルト・ユダヤ人強制収容所へ連合軍が進入する際に同行した米誌ライフの女性写真家、マーガレット・バーク=ホワイトが撮った写真の中には、骨と皮だけに痩せこけた体で横たわっている人々が写っている。2段目の寝床の左から6番目に横たわっていた人が、後にノーベル平和賞を受賞するルーマニア生まれの米国のユダヤ人作家、エリ・ヴィーゼルだ。ヴィーゼルはこう語った。「ホロコーストを否定することは彼らを二度殺すことになる」。そこで尋ねねばならない。私たちは無関心という名のもと、二度ばかりか70年も被曝者を殺してきたのではないか。

 世界で2番目に多くの被曝者を持つ国が韓国だ。韓国原爆被害者協会によれば、現在の生存者は2584人。平均年齢が82歳になる彼らは、今日も放射能後遺症を背負って生きている。

 2004年、国家人権委員会は韓国の原爆被害者の基礎状況と健康実態の調査を通じて、被曝1、2世は劣悪な健康状態と社会的疎外の中にあり、立法対策と詳細な調査が迫られると提案した。調査では驚くべきことに、被曝1世が一般人よりうつ病が93倍、造血系癌が70倍も多く発生していると指摘された。

 2世の被曝はさらに絶望的な状況にある。一般人より心臓系疾患で89倍、貧血で88倍、白血病で13倍も病んでいるという。

 驚くべき数値だ。短期間の調査でこんな有様なのに、国家次元の実態調査や医療支援が一度もされないまま、被曝者は苦痛を受け継ぎ生きている。こうして70年が過ぎ去った。

 原爆被害者とその子供を支援するための特別法案は2012年以降4件も発議されたが、自動廃棄され法制化されなかった。19代国会でも関連法案が発議され小委で繫留中だが、展望は暗い。今国会で再び自動廃棄されれば、この痛恨をいったいどうしたらいいのか。こうして70年が過ぎ去った。

 2003年から原爆被害者1世たちが日本から受けている援護手当てがある。これも徴兵1期生として広島に連れていかれ被曝したクァク・キフン氏が、長い法廷闘争の末に勝ち取った結果だ。歴史認識問題での闘争で一線を画す勝訴を導いたクァク氏の労苦は偉大なものだった。クァク氏が長く辛い闘いを続ける間、我が国の政府の外交的支援や援助は一度もなかった。こうして70年が過ぎ去った。

 現在の韓国の29種ある中高校歴史教科書のうち、日本に原爆が投下されたという事実だけでなく、韓国人被曝者について言及した教科書は斗山東亜が出版した一つしかない。こうして70年が過ぎ去った。被曝者の生き延びてきた残酷な70年の旅程である。

■ 生活の中の核にも戒めを

被曝2世患者のハン・ジョンスンさん。彼女にとって原爆の苦痛は現在進行形だ=チャン・ソンハ氏提供//ハンギョレ新聞社

 被曝2世の患者のハン・ジョンスンさん(59歳)。光復節(解放記念日)は彼女にとり今年も喜べない日だ。ハンさんの日帝強制占領期間の苦痛は今も現在進行形だ。彼女が語ってくれた事情、その切実さと数奇さは、話を聞いていた時もそうだったように、文章にするのにも苦痛が伴った。

 日帝強制占領期間の収奪で生活の基盤を失い、広島に渡った両親は、その広島で原爆に遭う。当時妊娠中だった母親は崩れた建物で腰に大怪我をした。生き残れた両親は故郷の陜川に戻れたが、その時から被曝の苦痛が始まった。

 「私は2男4女の5番目です。一番上の兄は誕生日が過ぎて幾日もしない間に亡くなり、私は幼い時から足の痛みで苦労しました。被曝後遺症が私にも現れたのでしょう」。病名も分からぬ足を使えない症状のため、職場生活を続けることもできなかった。そして結婚して最初に産んだ息子は脳性麻痺だった。

 さらに兄弟姉妹の4人に紅斑という、肉が卵ぐらい腫れ上がる病苦が襲う。その後も「大腿部無血性壊死症」という奇異な病気が彼女を打ちのめした。大腿部の関節が壊れ、歩くこともできない体で脳性麻痺の息子の世話をして生きていかねばならなくなった。歩くことができないから、家でも両手で体を引っ張り這って動かなくてはならない。脳性麻痺の息子のためにラーメンを作ってあげても、手のひらから流れる血を部屋じゅうに塗りつけながら体を引っ張っているうち、いつの間にかふやけてしまったラーメンを見て何度泣いたかしれない。

 これ以上どうにも生き続けることができない絶望の泥沼の中で手術を受けたのが、93年だった。人工関節をつけ、驚くべきことに立ち上がり、歩き、走ることさえできるようになった時、彼女は決心した。これからの自分の人生はおまけに過ぎない。少しでも力があるなら、人のために生きていこうと。

 「本当に辛い日々だったので、私には辛さがどんなものであるのかがよく分かります。『私が人を慰めることさえできれば!』という切実な思いがありました」

 辛い思いをしている人のために生きることを決めた彼女が探しだした道は、病院の看病人になることだった。「自分が辛かったので人の辛さが分かる」という考えはそれに留まらなかった。世間に向かって自分と同じ被曝2世の患者のための活動を始め、陜川を震源地とする反核運動にも参加した。

 陜川福祉会館で暮らす89歳になる母親は、帰国して産んだ初子が原爆のために死んだと話したことはない。

 「原爆のためじゃない。赤ん坊は飢えで死んだ。そう話したお母さんの血の滲むような胸の内が私には分かります。被害を受け継がせたくない血の涙を」。被曝者の苦痛が繰り返されない対策を用意するため「韓国原爆2世患友会」の会長を引き受け東奔西走した。組織は被曝2世の対策を訴え35歳の短い命を終えたキム・ヒョンニュルさんが2002年に設立した。

 彼女は語る。 「福島原発事故、古里(コリ)原発と密陽(ミリャン)送電塔、中国に増設される原発などを見ていると、私たちと同じ被害者が生まれるかと思い怖くなります。戦争だけでなく、生活の中にある原子力に対しても警戒心を持つべきです」。肉体的な苦痛と障害者の子供を持つ凄惨な人生を母性愛で克服し、個人の悲劇と絶望を越え「共に行動する」連帯の真の意味を発見したハン・ジョンスンさん。苦痛を強いられる者どうしが苦痛を分け合うのも治癒の一つであることを見せてくれる人生の軌跡は、私たちに強く問いかけてくる。被曝2世の問題を個人の悲劇で終わらせてはいけないと。遅くなったが今からでも国家が動かなくてはならないと。

 彼女は今でも体を動かすことができない30歳の息子を世話して生きている。陜川の夜はこうして深まった。

■ 忘却で封印された無関心の70年

 耳が遠くなりそうな暑さの中を突き抜け、喧しく鳴き続けるセミの音だけが生きているように感じられた。1945年のその日、広島と長崎でもセミはこんなふうに鳴き続けていたという。

 70周年原爆犠牲者追悼祭が福祉会館そばの慰霊閣前で始まった。慰霊閣には1057位の原爆犠牲者の位牌が奉られている。追悼式場の近くでは被1世たちが治癒プログラムで描いた絵がかけられ、その日の記憶を蘇らせていた。

 質素な追悼祭が進められる時、慰霊閣に掲げられた「解冤(命の冤と恨を解くこと)を越え平和の丘に」という標語を見つめた。慰めになる言葉だった。私たちの想いは人類の平和のための念願であるからだ。

 追悼祭を終え陜川を離れるのに先立ち、最後に「陜川平和の家」に向かった。原爆被害者たちのための憩い場として出発したこの施設は、非核・平和運動にも力を注いでいる。一人の僧侶の情熱と労苦が作り出した場所である。

右から2人目がハン・スサン氏=チャン・ソンハ氏提供//ハンギョレ新聞社

 2世の患者のための治癒プログラムを調べる間、事務総長のイ・ナムジェ氏が女性チーム員と交わす話が聞こえた。現実的な困難と限界でお手上げだと話す彼女を、イ氏はこう諭していた。

 「やっとここまできたじゃないですか。最後までやり抜きましょう。頑張って!」。そう。冷遇と無視の中、それでもここまでやってきた。決して諦めない情熱が希望の火種となるはずだ。

 “私たちの忘却”より問題なのは“彼らの歪曲”だ。失われる前に正確な資料を集め、被害者の証言を記録して永遠に残さなければならない。陜川郡が主導する原爆記念館設立が表面化しているという便りもある。これも希望の火種ではなかろうか。

 日帝強制占領期間を扱った私の小説『カラス』の悲劇は、過ぎ去った話ではなく今も綿々と続いているのかも知れない。あらゆる歴史の苦痛を担って生き続けなければならなかった被曝1世、終わることのない『カラス』の悲劇を続ける2世に、“忘却”で封印された冷遇と無関心の70年から抜け出し、「あなたがたは一人じゃありません」と力強く手を差し出すことができる日は、いつ訪れるのか。

ハン・スサン/小説家(お問い合わせ japan@hani.co.kr )

韓国語原文入力:2015-08-14 19:39

http://www.hani.co.kr/arti/society/society_general/704529.html訳Y.B

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