21日にソウルで開かれた会議の公式名称は「韓日中外交長官会議」だった。しかしハンギョレをはじめとする多くのメディアは「韓中日」の順序に変えて表記した。メディアは大衆に馴染みやすい表現に従ったわけだが、政府が「韓日中」とした理由は開催順序を表示した公式名称であるためだ。
3カ国外相会談は2007年6月に韓国(済州)で始まり、日本(東京・2008年)、中国(上海・2009年)、韓国(慶州・2010年)、日本(京都・2011年)、中国(寧波・2012年)の順に開かれた。同じ年に同じ国で3カ国首脳会談も開かれた。この順序を反映させながら自国を先頭にして呼ぶため公式名称としては「韓日中」とするのが韓国外交部の説明だ。実際の開催地を問わず、この間、韓国外交部は「韓日中首脳会議」とか「韓日中外交長官会議」と表記してきた。普段の使われ方からすると、日本より中国を前に配置する「韓中日」が自然だが、それでも原則があるのでそれに従ったという話だ。
韓日中の順なのに中国は「中日韓」と表記しているので、開催順序表記の原則に3カ国が合意したわけではなかったようだ。自国を前にして開催順序を表わすなら、日本は「日中韓」になる。日本政府は実際、この会議を日中韓と表現している。 日本のメディアも普段の順番と同じなのでそのまま使っている。 問題は中国政府だ。開催順序に従うならば中韓日と言うべきだが、中国外交部のホームページでは今回の会談を扱ったすべての文書が中日韓と書いている。 今回だけでなく過去にも中国政府は中日韓と呼んだ。 中国メディアも同様だ。
そう考えると中国だけが開催順序表記の原則を守っていないようだ。実際、韓国外交部ではそのような意味で、「原則通り表記しない中国が間違い」という反応も出ている。しかし別の見方をすれば、韓国だけが自国民が普段使う表現を無視して開催順序表記の原則に固執しているとも言える。他の人々は神経も使わない規則を守って、韓国政府がこの3カ国会議体制を大切にする、または執着している傍証と見ることもできる。
3カ国協力は韓国が最も積極的
韓中日の3カ国会議は1999年のアセアン+3(東南アジア国家連合10加盟国+韓中日)首脳会議で、日本側の提案で韓中日首脳が非公式の朝食会をしたことから始まった。 だが、その後これを主導したのはずっと韓国だった。 2004年、韓国政府はアセアンとは別に3カ国首脳会談をしようと公式提案し、2007年に公式合意を引き出した。 同じ年、済州での3カ国外相会談で端緒が開かれ、翌年6月に日本の東京で外相会談が、12月に福岡で初めての首脳会談が実現した。以後、毎年会議が開から定例化され、議題は経済、核安保、軍縮非拡散、災害対処、原子力安全などに拡大し3カ国間の協力も強化された。
だが、6回にわたる首脳会談が開かれて議長国の順番が2回巡った後、韓国が再び開催国(同時に議長国)を務めた2013年には会議を開催できなかった。 2012年に日本が尖閣(中国名 釣魚島)に対して国有化を宣言して、同年末に安倍晋三首相が選ばれた後歴史修正主義政策を展開し、中日、韓日間の軋轢が激化したためだ。
中日「韓国の積極的な努力を評価」
韓国はやむなく議長国を維持して、会談再開の可能性を追求し、2013年と2014年を飛ばして今年に入って3年ぶりの会談が開かれた。 今月21日の外相会談後に出された共同マスコミ発表文には「日本の外務大臣と中国の外交部長は、韓国側がこの間議長国として今回の外相会談の開催を含め3カ国の協力のために積極的な役割をしてきたことを高く評価した」という文言が入った。
韓国が韓中日の3カ国協力に積極的である背景については、イ・テファン世宗研究所中国研究センター長が2011年10月の報告書で分析した内容が示唆に富んでいる。
「韓日関係も教科書問題や独島問題などで(中日間の軋轢要素と)似た状況があるが、韓日間には地域内での主導権競争がないという点で差がある。 韓国は中国とも主導権競争の心配がなく、中国と日本が韓国を信頼し調整の役割をするよう委任することができるならば、韓国の役割は大変重要になるだろう。 韓中日が協力する仕組みを通じて、韓国が中日間の掛け橋の役割をすることにより主導権問題にしばられずに韓中日協力構図を定着させていく必要がある」。 換言すれば、中日構図のためにに激化しかねない領域内軋轢を緩和させつつ管理するためには韓中日3国協力が必要であり、そのためには韓国の主導的役割が欠かせない外交的環境が存在するという話だ。
北(朝鮮)日か、日北か
一方、韓国政府が日常の言葉遣いやメディアの書き方と異なる表現を使う別の例として北(朝鮮)を挙げることができる。 メディアでは「北米核交渉」「北日交渉」 「北中関係」 「北ロ蜜月」などの表現を使うが、韓国政府が使う言葉は全て「米北」 「日北」 「中北」 「露北」など北朝鮮を後ろに下げてしまう。以下はこれと関連して昨年8月29日イム・ビョンチョル韓国統一部スポークスマンの定例ブリーフィングで出た問答だ。
-「米北」という表現を使ったが、それは公式的な立場ですか?
「私が先ほど米北という表現を使ったのは、米国は我々の友邦であるためで、米北という表現を使ったのです」
-日本、中国、ロシアなど他の国々はどうなりますか?
「私が米北という表現を使ったならば、日北、中北、ロ北です」
政府が北朝鮮を後に置くのは長年の慣行だ。外交部官僚出身のある要人は「北朝鮮と日本のような場合、数年前までは完全に〝日北”だった。 最近になって外交部の内部報告書で一部で〝北日”と書くケースも登場したと理解する」として、「規則があるというよりは、世相や時代の雰囲気の影響を受けるようだ」と説明した。 すなわち北朝鮮に対する政府の態度がどれほど強硬なのか、またはどれほど柔軟なのかが用語の使い方にも影響を及ぼすという説明だ。
「日・中共」修交後「中日」と表記され、メディアもこの頃は周辺国関連記事で概略「南(韓)-北-米-中-ロ-日」の順で書くよう合意が形成されたようだが、このような軌道に乗るまでにはかなりの時間がかかった。たとえば、1972年の中日国交正常化時期を見よう。韓国のメディアは日本を中華民国(台湾)と並べて使う時は「中日」と書いたが、中華人民共和国(中国)と一緒に使う時は、大概“中共”と呼び「日・中共」と書いた。
「日・中共 覚書貿易 12月初めに交渉決定」(1971年11月9日付 東亜日報)
<今年末で期限が終わる日・中共覚書貿易協定(期限1年)の継続交渉が12月上旬から開かれることが決定された。>
「韓中日親善大会参加 商業銀行野球チーム 台湾に出発」 (1971年11月25日付 東亜日報)
<中華民国建国60周年記念 韓中日3カ国親善野球大会に出場する韓国商業銀行チーム一行24人が25日午後1時20分、大韓航空便で出発した。>
しかし、中国と日本の国交正常化が実現すると中華人民共和国(中国)は日本の前の席に躍り出た。
「北京会談を控えて見た“アジア政策”」(1972年2月21日付 東亜日報)
<中日関係の改善と中ソ緊張緩和が彼ら強大国自身だけでなく米国の利益とも考えられることを明らかにしなければならない。>
「ワシントンの見方」(1972年9月30日付 東亜日報)
<中日国交正常化に対して米ホワイトハウスはノーコメント。 米国務省は「不満はなく驚くことでもない」と寸評。 新聞や放送もほとんど論評なしの報道だけだ。 言ってみれば米国の反響は当然の成り行きという以上の何物でもない。>
こんな風に中日の順序が入れ替わるほどに時間が流れた後にも、周辺列強国家名を羅列する時には、冷戦構図を反映したためか、相変らず米国は日本と共に前に来て、中国は後に回されていた。
「韓米“同伴関係”熟す」(1983年11月14日付 東亜日報)
<このような米国の立場はすでに76年にキッシンジャー米国務長官が米日中ソによる韓国・北朝鮮のクロス承認政策が提案された時から表明されたことだったが…>
「ソ、北朝鮮の開放要求へ」(1988年12月21日付 東亜日報)
<盧泰愚(ノ・テウ)大統領は10月19日、国連総会演説で韓・北・米・日・中・ソの6カ国が参加する韓半島および東北アジア平和会議を提案した。>
しかし冷戦が終息して北朝鮮の核が域内最大のイシューになり、冷戦時期の“前線”がかすんでくると、徐々に今の順序と形が確立するに至った。
「北朝鮮の核と韓半島平和」(1994年9月17日付 東亜日報)
<このような情勢変化が米中日ロ南北など6カ国協議を動揺させている。>
「YTN特別対談番組に出演する米中露日の駐韓大使」(1996年11月9日付 東亜日報)
<YTN特別対談番組に出演する米中露日の駐韓大使、左からジェームズ・レイニー、張庭延、ゲオルギー・クナーゼ、山下新太郎>
要するに、韓国メディアも周辺列強を羅列する順序に様々な時代変化を反映しなければならなかった。 歴史の変わり目に新聞にはその苦悩がそのままにじみ出る。