本文に移動

地域医療を守る緑色病院と全日本民医連

登録:2014-11-05 00:12 修正:2014-11-05 07:47
『全日本民主医療機関連合会史』を翻訳した緑色病院企画室長パク・チャンホ氏
緑色病院企画室長 パク・チャンホ氏//ハンギョレ新聞社

「良い医療とは、安価で良質な医療を提供することだ。だが、そうすれば赤字を免れず、結局、門を閉めなければならない。 緑色病院の目標は利益を出すことではないじゃないか、という問題提起もあるが、患者中心でありながらも、労働者と市民・住民の共有財産である病院をうまく育てて維持しなければならない。 持続可能な経営、盲目的利潤追求ではなく、病院の維持・発展のために適切な利益を出すことは大変に重要だ。 それが煩わしいからと、良い医療さえ提供すればそれで良いではないかと考えがちだ。 だが、資本主義社会でそれは滅びる道だ。 科学的で民主的に運営し、うまく育てていく道を見つけなければならない」

 緑色病院企画室長パク・チャンホ氏(52・写真)が『差別のない平等医療を指向して-全日本民主医療機関連合会50年の歴史』(健康メディア協同組合編)という600ページを超える分厚い本を翻訳した理由だ。彼はこの本からその解決法の糸口を見つけたようだ。 そして「ハンギョレ新聞社も同じような苦悩をしているのではないか」と反問した。

1953年に発足した日本最大の医療組織
会員350万人 民主診療所 50年継続
「低費用・高品質医療そして利潤 全て重要」
源進レーヨン労災闘争の産物 緑色病院
93年財団創立・99年開院時から参加
源進、「廃業、公害設備は中国を経て北送説」

 緑色病院と全日本民主医療機関連合会(民医連)は2004年に相互交流支援協約を結んだ。

「全日本民医連の前身は、1930年に始まった無産者診療所運動組織だ。当時輸入した西洋医学の受恵者は主に中流層以上だったため、疎外された労働者・農民・貧民が医師とともに組合形態で作った。 だが、天皇制下で弾圧を受け、日帝崩壊直前まで診療所は全て門を閉めなければならなかった。敗戦直後には米軍政の“レッドパージ”(左翼追放)で良心的な医療関係者も全て追放された。 民医連はそれに抵抗し、民主診療所を作って53年に新たにスタートした組織だ」

 民医連が自らの討論を土台にして2012年に出版したこの本は、その50年の歴史を詳しく整理したものだ。 民医連は2011年現在、日本全国に147の病院と525の診療所、322の訪問看護ステーションを置き、約8万人の職員がそこで働いている。「医療組織としては日本最大の規模だ。 地域の住民たちが出資金を出し合って、必要な医療装備を購入し、病院運営にも直接参加する共同組織であるが、その会員が350万人にもなる。 韓国ではまだ出来ずにいることだ」

 “知らないうちに浸透して私たちを蝕む新自由主義の資本の論理”から民医連医療機関を守るのが住民たちであり、“働く人々の所有、働く人々による経営、働く人々のための運営”という三原則の下、住民を病院運営にも参加させるのが共同組織だという。

「医療生協が次から次へと登場している韓国の現実にも民医連の活動経験が役立つでしょう」

 彼は源進(ウォンジン)レーヨン職業病管理財団事務局長という職責も持っている。 職業病患者の自活と労災に関連する専門的予防と治療、研究のために1993年に設立された財団だが、創立会員である彼は99年に緑色病院開院の時から企画室長と事務局長を兼ねている。約350の病床に32の診療科目と専門センターを保有するソウル面牧(ミョンモッ)洞の緑色病院と、100足らずの病床に源進労働者健康センターがある九里(クリ)源進緑色病院はその付設病院だ。

 “源進”とは悪名(?)高かったその源進レーヨンだ。日帝強制占領時代に大金持ちだった和信グループの総帥パク・フンシクが日本の東洋レーヨン(東レ)の中古機械を持ってきて66年に設立した韓国唯一のビスコース人造絹糸生産企業だった。ビスコースはアルカリ繊維素に二硫化炭素を反応させて得られる粘りのあるキサントゲン酸ナトリウムを希釈した水酸化ナトリウムに溶かした化学製品で、これを細く引き抜き合成繊維(人造絹糸)を作った。 安全設備の不備のせいで、その工程で多くの若い労働者たちが神経毒ガスの原料として使われる二硫化炭素・硫化水素ガスに無防備に露出し、腕や脚のマヒ、言語障害、記憶力減退、精神異常、性的不能、腎臓機能障害などの職業病で苦しんだ。そして77年に入社して7年間働き退職したキム・ポンファン氏が90年に二硫化炭素中毒の判定を受け、労災療養申請を出したが拒否された後、91年に職業病の症状である精神分裂で亡くなり社会問題化した。 源進職業病被害労働者協議会は職業病認定と事業主の処罰を要求したが、会社と労働部が拒否し、これに対し労働者・市民団体・学生までが加勢して137日間に及ぶ壮烈な連帯闘争を行った。 ついに労災認定を受け取った「キム・ポンファン事件」等を経て、源進レーヨンは93年に結局廃業した。

「その時、政府が会社の敷地を建設会社に売却し補償費として360億ウォンを払ったが、それを管理しているのが非営利公益法人の源進職業病管理財団だ。資金は政府が出したが財団に政府側の人はいない。 補償費の中から110億ウォンで労災労働者のための緑色病院を建てた。 当時でも一般病院の医師たちは労災を仮病ではないかと感じていた」

 今では約900人の労災患者が緑色病院の特別管理を受けているという。 だが「今、二つの病院利用者の90%は一般の人たち」とのことだ。

 韓神大学82年度入学生で、85年に労働部水原(スウォン)地方事務所占拠闘争に参加して1年間“監獄暮らし”をしたパク氏は、90年に大学を卒業して民衆教会運動の伝導師(安養博達教会)になり舍堂病院労災相談員として働いた。そしてキム・ポンファン事件に加わって源進との縁を結んだ。

 その時に閉鎖された源進レーヨンの設備は中国に売却された。

「中国は韓国での前例を意識したのか、労働者を1年に一度ずつ全員交替する形で彼らなりに対策を講じたという。事実かどうかは分からないが、最近になってその設備が今度は北朝鮮に行ったという話を噂で聞いた」

文・写真 ハン・スンドン先任記者 (お問い合わせ japan@hani.co.kr )
https://www.hani.co.kr/arti/culture/book/662905.html 韓国語原文入力:2014/11/04 19:16
訳J.S(2728字)