過去と現在が対話する方式は単純ではない。しかしこの地の主流が過去と対話する方式はいわゆる‘起承転結進化論’だ。 日帝強制占領期間に親日行為をした実力が大韓民国‘建国’の資産になり、また植民支配のおかげで既に近代経済成長が本格化し独立後の産業化成功につながり、産業化のおかげで政治的民主化が可能だったという風にだ。
この解釈どおりならば1972年に始まった朴正熙維新体制を通じた重化学工業化と圧縮成長のおかげでこそ、政治的民主化も初めて可能になったという論理が導出される。 省察力が欠如した一次元的進化主義と経済主義は維新独裁時期の認識においても経済成長価値を第一に置き、民主化の価値を周辺化させ、後に続いた第5共和国独裁もまた正当化させる結果を産むことになる。 父親 朴正熙の名誉回復を掲げた朴槿恵セヌリ党候補側のある側近は、維新体制が輸出100億ドルを超えるための措置であり、維新がなかったら100億ドルを達成できなかったと語った経緯がある。 1人終身独裁を正当化する成長物神主義を如何なく遺憾なく表わした発言に相違ない。
維新体制において‘維新経済’はどんな性格を持っていたのか。 維新独裁がセヌリ党など現在の執権勢力と既得権層に過去事の負債として残っているならば、維新経済はひたすら資産だけを残したのだろうか? 維新独裁の政治・社会的野蛮だけでなく、経済的遺産についても与党をはじめとする現在の保守勢力は謙虚に省察し公正な評価を受ける姿勢を示してこそ国民の共感を得ることができるのではないだろうか。
10億ドル輸出を100億ドルに増やしたこと自体は良いことだ。 明らかに保守勢力にとって維新経済は資産であり、そのように認めなければならない部分もある。 特に防衛産業生産の主体を軍の工場ではなく、民需企業が兼ねるようにしたことは効率的な企画だったと考えられる。 進んで維新経済内部を覗いて見れば、高度成長を可能にした国家主導型の‘調節された市場経済’要素があった。 主な基幹産業を優先育成する選別的な産業政策、および金融統制、そして企業の高投資が互いに関連したこと、輸出実績に代表される成果規律を国家が強制したこと、無分別な開放ではなく開放と国内市場保護を結合したことが代表的だ。 このような調節された市場経済基調は、新自由主義世界化時代を支配した‘チュルプセ’(税金を減らし、規制を解いて、法秩序は立てる)政策とは対立するものだ。
しかし何よりも重要な点は、70年代初めに韓国が非常体勢へ逆回りせずに正常な方法で管理された市場経済基盤の上に産業高度化の道を進む可能性を持っていたという事実だ。 71年に圧縮産業化が招いた不均衡と社会経済的葛藤を考慮して成長・安定・均衡の調和を指向する3次5ヶ年計画が公布され、これを状況変化に合うよう修正、補完する方法があった。 それだけでなく71年大統領選挙で野党の金大中候補は韓半島平和・民主主義と同行する方式で国民経済均衡発展と経済民主化を骨格とした大衆経済方案を提示していた。
1970年代初めは米-中修交とベトナム戦終息などにより世界的に脱冷戦の新しい波が起き、韓半島の安保状況も南北対話が進行されるなど有利な気流が現れていた。 こういう絶好の機会を踏みにじり朴正熙政権はその時の脱冷戦・民主化・均衡発展の時代精神の逆らって進んだ。 大統領府の恣意的な専横権と財閥独占、労働基本権抑圧、中小企業排除などを前面に出した突進的動員経済モデルは、途方もない無理と国民的犠牲を招かざるを得なかった。 その代価は1979~80年の外債償還圧迫、物価上昇、過剰重複投資を伴った経済危機と朴正熙の死、そして維新独裁の焼き直しと言える第5共和国独裁の下での財閥庇護および費用社会化を伴った構造調整政策で支払わなければならなかった。
韓国経済が突進的な重化学工業化のドロ沼から抜け出したのは、第5共和国独裁を後押しした米・日保守政権の連合支援、80年代中葉の3低好況という対外的変数が決定的要因だった。 そして財閥の力をさらに強化し、反対に労働者、庶民大衆には一方的犠牲を強要した構造調整政策のおかげだった。 維新経済を貫く終身独裁と財閥支配連合、費用社会化と利益財閥化、先成長-後分配主義はわが国社会の跛行的両極化と二重構造的不均衡を深化させ、経済民主化と福祉国家、国民統合の道に罠を仕掛ける原罪を犯した。 今日の財閥共和国と国民分裂は、維新経済体制にその根元がある。 その遺産の克服と国民統合の道はチュルプセの形を変えただけの経済民主化では不可能だ。
イ・ビョンチョン江原(カンウォン)大経済学科教授