勤労挺身隊で飛行機工場に連れて行かれた国民学校生徒の少女は、昼間は重労働に苦しみ、夜は爆撃を避けて防空壕に隠れて死の恐怖に震えた。三菱重工業の名古屋航空機製作所で17カ月間にわたって戦闘機を作る強制労役をしたが、約束されていた賃金は一銭ももらえなかった。少女は何度も命拾いをしてやっと故郷に帰ってきた。そして1992年から韓国と日本を行き来しながら、日本政府と強制動員企業の謝罪と賠償を求める人権回復闘争を続けた。日本で行われた3件の訴訟でいずれも敗訴したが、あきらめなかった。結局、2018年11月29日、韓国最高裁(大法院)で勝訴判決を勝ち取った。しかし、戦いはまだ終わっていない。日本側が1965年韓日請求権協定によりすべて解決済みだとして、判決の履行を拒否しており、彼女は日本企業の資産売却のための法廷訴訟を行っている。
強制動員被害者人権回復運動のシンボルとなったヤン・クムドクさん(92)の話だ。今年9月、国家人権委員会はヤンさんを大韓民国人権賞(国民勲章牡丹章)の受賞者に選び、名簿を公開した。しかし、人権の日の9日の授賞を控え、6日に開かれた国務会議にヤンさんの叙勲案件は上程されなかった。「関連省庁間の事前協議が必要な事案であるため、保留を要請した」という外交部の説明は、苦しい言い訳に過ぎない。日本を意識した「低姿勢の屈辱外交」という批判を免れないだろう。被害者支援団体である日帝強制動員市民の会は11日、ヤンさんに市民が作った「私たちの人権賞」を授与した。政府の代わりに市民が与えた勲章だ。
今回の事態からは、韓日関係改善を速度戦のように推し進めてきた尹錫悦(ユン・ソクヨル)政権の焦りがうかがえる。尹大統領は日本との関係改善と韓米日軍事協力を強調するとともに、強制動員問題を終わらせて年内に日本を訪問することまで目指していたという。朝鮮半島の安全保障危機と国際秩序の混乱状況で、日本との協力を強化する必要があるのは事実だ。だとしても、政府が30年間正義と権利回復のために奮闘してきた強制動員被害者に対する叙勲にまで待ったをかけたのは納得しがたい。日本の植民地支配に対する反省と被害者に対する謝罪もなく、政府が一方的に推し進める韓日関係改善は、世論の同意どころか反発を招くだけだ。政府は被害者の心に寄り添うことなく、韓日の歴史問題の解決策を差し置いて、安全保障、政治、経済的韓日関係だけを切り離して前に進められるという幻想から目を覚まさなければならない。