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[寄稿] 韓国社会の英語と英語教育を考える

登録:2021-06-22 09:19 修正:2021-06-22 10:09
チョン・ヒジンㅣ 女性学研究者・文学博士 

プラットフォーム資本主義体制で公教育崩壊 
英語教育の意味も急激に変化 
 
融合は代案に向けた実践であり、ポストコロニアル 
外国語そのものは知識ではなく道具にすぎず 
 
勉強・専門家の基準を多様化すべき 
英語に対する世間の要求は二重的 
 
個性的なコンテンツが優先 
その後は通訳者の役割
20代の青年が寄稿を先に読んで描いたイラスト=キム・ウソク//ハンギョレ新聞社

 教育部が5月2日に発表した「2020年国家水準学業成就度評価結果」は予想通りだった。新型コロナの影響で学習欠損と学力低下、特に英語科目での格差が大きく開いた。あちこちで懸念の声があがっている。しかし私はこのような現実が本当に“問題”なのか、疑問に思う。もうずいぶん前から、大韓民国の子供たちにとって学校は楽しい場所ではなかった。彼らは教室の脇役に追いやられ、暴力に苦しんできた。今や勉強を一生懸命頑張っても、就職できるという保証もない。

 高校の英語教師である私の友達は、同僚教師の中には2つのタイプがいると言う。自分は「給料泥棒」に過ぎないと悩んでいる人と、こうした現実を受け入れ順応している人だ。英文科の教授たちにとっての事情もそれほど変わらない。幼い頃の海外生活の経験などで、教師より発音が良い学生も多く、メディアの発達で英語を学ぶチャンネルも多様になった。

 韓国の現代史で、英語と関連しては憂いを越えて奇異な話が後を絶たない。英語能力ひとつで大統領になった人物もいたし(チェ・ギュハ元大統領)、数年前、ソウル市江南区(カンナムグ)の一部の保護者の間では、ネイティブのような発音ができるように子どもの舌を切断する手術が流行ったこともあった。

 こんな話をしていても仕方がない。いま私たちが直面すべき現実は、軍隊と学校の崩壊だ。これをきちんと認識せずにして、公教育の公正性の強化を叫ぶのは何の意味もない。危機意識がなければ、公正性の議論なんて初めから不可能かもしれない。このような危機意識抜きの議論は、進歩的な教育監を揺さぶりやすい陳腐な口実に過ぎない。いま、軍隊と学校は兵士と生徒のための制度ではない。将校と教師の生計のための装置だ。そのような意味で、行き過ぎた場合でなければ、私教育(塾や習い事)市場に対する非難も適切ではないと思う。私教育で生計を立てている大卒者がどれほど多いものか。

 私は教育の不平等を懸念する考え方の前提を問いたい。いま韓国社会の問題が“第3世界”のように教育機会の不足によるものだろうか。むしろ産業構造に合わない高学歴者が溢れているのが“問題”ではないだろうか。海外就職論もこのような状況で登場した。勉強ができれば就職できるのか。持ち家が手に入るのか。ちゃんとしたコミュニケーションができる市民になれるのか。金の匙をくわえて生まれても、本人の血のにじむような努力が伴わなければならない時代だ。残りは“剰余”になる世の中だ。

 教育条件が平等になったとしても、すべての生徒が勉強ができるわけでもなく、その必要もない。勉強の基準が多様な社会を作り上げなければならない。“はしご”が一つであることも問題だが、そのはしごを私たち自らが絶対化することの方がはるかに深刻な問題だ。比較的平等な社会でも学力の格差は付き物だ。それが人権や就業、人格に対する不平等と侮辱につながらない文化作りの方がはるかに大切だ。

 周知のように、学校と軍隊は近代初期の産業資本主義時代に労働者を大量に訓練させ、彼らを“国民”にする主要な機関だった。しかし、この時代にも機械に働き口を奪われた労働者たちが機械を壊すラッダイト運動があった。資本主義の成長、物質崇拝、先端産業の持続的な登場。みんな同じ言葉だ。その結果は貧富の格差と自然破壊だ。環境破壊によるしわ寄せも貧しい人々に集中する。

英語は資本主義の歴史

 英語の歴史は資本主義の歴史であり、近代性のけたたましい痕跡だ。英国の支配で始まった英語の世界史的登場は、北米大陸を経て、その後「マクドナルド化(McDonaldization)」と呼ばれる米国中心のグローバル資本主義は、英語の地位を確固たるものにした。当代はどうか。翻訳機能があるが、毎日世界中の数十億人のインターネットユーザーが英語のグーグル文書を検索する。プラットフォーム資本主義で英語の権力は極限まで達した。

 すべての権力には終わりがある。パクス・ロマーナは滅び、パクス・アメリカーナも滅びるだろう。しかし、米国は滅びても英語は滅びることはない。英語で書かれた文は永遠に残るからだ。これが文化権力だ。私の知る限りでは、当代の人文・社会・文学分野では、米国は最も知識の生産が活発な国だ。彼らは知識、お金、武器をすべて持っている。特に知識は資源が何かを定義し分配する資源の中の資源である。ポストコロニアリズムやフェミニズムの研究も米国が最も盛んであり、多くの進歩的な言説が生まれている。

 問題は米国が“知識王国”という事実ではない。知識権力こそ最も分化されなければならない領域だが、韓国は自ら米国の支配を熱望する社会だ。韓国の米国主義は異次元のレベルだ。全世界から米国にやってきた学生たちが自国の資料を“差し出し”、米国博士になる。韓国は非常に特殊だ。2002年に外国で博士号を取得した大学教員の66.3%が米国で“修学した”(2002年民主党のソル・フン議員室「大学教授10年の変化」)。

 先に述べたように問題は現実“ではなく”、韓国社会の態度だ。韓国が米国での博士号取得で中国にリードされたからといって、これをグローバル人材養成の赤信号だと嘆く(「文化日報」2008年7月21日付)のは、理系の特殊性と理解すべきだろうか。1999年から2003年まで、系列を問わず海外の学部として米国の大学で最も多くの博士号取得者を輩出したのは、「東洋の小さな国」のソウル大学だ。米国の大学を合わせてもカリフォルニア大学バークレー校に次ぐ第2位だ。中国とインドがそれに続くが、3カ国の人口比率を考えると、これは“偏向”どころではない。韓国は米国の州のひとつと言えるほどだ。もちろん、米連邦として認められない、外部にある内部植民地だ。

ポストコロニアルとしての英語教育

 韓国社会で英語ができなければ就職と進学はもちろん市民権が得られないと言っても過言ではない。英語力は知識や教養、学力と見なされる。しかし、実際に英語が業務と直結した会社員は全人口の何%だろうか。それほど多くない。“一般人”にとって英語ストレスについて質問すると、「外国人に道案内をするため」「海外旅行のため」と答える人が多い。漠然とした不安だ。

 米国の博士論文の中には、韓国で本人が書いた修士論文を博士論文にしたり、他人の論文を盗作し翻訳したものや、現地指導教授の放置の跡が明確な、水準未達の論文も多い。実力は社会的条件と個人的違いであって、学閥ではない。さらに、能力の概念そのものが論争の対象だ。

 すべての国民が“英語ストレス”で一生苛まれるなら、これは日本の植民地時代よりひどい植民地状態だ。英語から自由な社会を考えるべきではないだろうか。小学校の国語の教科書に基礎漢字併記を提案すると、非難する教師たちが多い。漢字は韓国語を構成する重要な部分なのに、学習量を増やすだけばかりで私教育を煽ると懸念する。しかし、外国語の早期教育の効率性や重要性は当然視される(間違った教育学理論だ)。

 何より重要なのは、英語の意味が強化されるほど、韓国の知識生産は後退するという事実だ。私たちは、“先進国”が自国にとって必要な知識を生産し、これを普遍的知識と言い張る時、英語を勉強する。支配者は母国語しか分からなくても偉そうにしている一方、被支配者は二つの言語能力を持っているにもかかわらず抑圧され、支配者の言語を学ぶのに夢中になる。2つを同時にうまくできない状況で、被抑圧者だけが二重労働を強いられる構造だ。コロニアリズムが作動する簡単な原理だ。

 米国人は英語だけでも学問や日常生活に支障がない。アルファベットさえ読めない非識字率も20%を超える。“英語=公用語”なので、ある程度名の知れた米国の作家が書いた本は複数の言語で出版される。韓国の出版市場はそのような翻訳書が占領している。国内の筆者の“深みのある本”は生産されることも生存することも難しい。

 “世界的な米国の碩学”たちが幼い頃から韓国語を必須で勉強し、その点数で大学に入るとしたら? アラブや東アジア地域で取得した博士号と2つ以上の言語を駆使してこそ大学教員になれるとしたら?銃乱射事件がもっと頻発するかもしれない。官僚ならともかく、“知識人”が知識の生産能力の代わりに大国の人とどれだけ会話ができるかによって評価される社会では、教育の意味がない。

 私は個人的に外国語の勉強に対して2つの立場を持っている。母国語を正確に使えてこそ、外国語も意味がある。それでこそ“2カ国語”も可能だ。外国語も母国語で学ぶというこの簡単な理屈がどうして通じないのだろうか。もう一つは、英語をはじめとする外国語そのものは知識ではない。道具に過ぎない。英語を絶対視するより発想の転換が必要だ。どんな分野でも代替不可能な専門家になれば、自然と通訳や翻訳が提供される。世の中はコンテンツを求めている。

 かつては、町にハーバード学習塾のような素朴な名前が多かった。最近、近所でこのような看板を見つけた。「(カナダの“名門大学”の)マギル大学博士が直接教えます」。小学生対象の小さな塾だった。

//ハンギョレ新聞社

チョン・ヒジン|女性学研究者・文学博士。 物を書くことと読むことが好きだ。論文、批評、随筆、手紙、コラムなど文章のジャンルはないと思う。女性学研究者としての勉強の目的は、既存の論争構図と戦線を移動させることだ。フェミニズムと脱植民地主義の観点から韓国現代史を再解釈することに関心がある。携帯電話を使用しない。

(お問い合わせ japan@hani.co.kr)
https://www.hani.co.kr/arti/opinion/column/1000274.html韓国語原文入力:2021-06-22 02:08
訳H.J

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