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[寄稿]リテラシー「最下位」の韓国

登録:2021-05-12 06:10 修正:2021-05-12 09:18
チョン・ヒジンㅣ女性学研究者・文学博士 

非識字率は1%以下だけど、 
リテラシーは極めて低い韓国社会 
 
低いリテラシーを利用して金儲けする人も 
プラットフォーム資本主義時代、代案はない 
 
リテラシーは共同体の生存の基本条件 
 
理解しようとする過程で融合が発生 
理解する前に「判断の留保」を 
何かを知るのは自ら進化する過程
20代の青年が同寄稿を先に読んで描いたイラスト=キム・ウソク//ハンギョレ新聞社

 いくつかの総合日刊紙を隅々まで読んでいるが、株や不動産、自動車関連の記事はほとんど理解できない。空売り?180馬力?これらの単語が何を意味するのか、私には分からないが、自分の生活とほとんど無縁の話で、大きな不便はない。そう割り切っても、これはと思う表現はある。坪数だ。確かに広さを平方メートルで表記するのには理由があると思うが、私のように坪という単位に慣れてしまった人にとっては、25坪の方が分かりやすい。84平方メートルと言われても、どのくらいなのかイメージがわかない。自慢できることではないのは分かっている。ただ、世の中のすべての文章を理解するのは到底不可能なのだ。

 私のように字は読めるが文章が理解できない場合、「リテラシー(読解記述力)が低い」という。空売り(short selling)という字は読めても、「投資対象である現物を所有せずに、対象物を(将来的に)売る契約を結ぶ行為」という文章は理解できない。リテラシーとは字を読む行為ではなく、文章を実際に理解する能力であり、人間の考え方を左右する。最近は文章だけでなく特定分野に対する認識として、エコリテラシー、イメージリテラシー、メディアリテラシー、デジタルリテラシーなど多様な概念が登場している。

 文字の読み方と文章の理解はまったく異なる。韓国はハングルのおかげで、非識字率1%以下の世界最高の識字国家だが、リテラシーの面ではその反対だ。調査時期や年代ごとに異なるが、リテラシーは経済協力開発機構(OECD)加盟国のうち、最下位もしくは中間以下というのが一般的な見方だ(約20年前、最下位の統計があった)。韓国は“知識大国”とは程遠い。おそらく韓国社会のリテラシーを最も実感する集団は、生徒を教える教員たちであろう。小中高校だけではなく、大学も同じだ。教室崩壊、講義室崩壊が起きて久しい。

 リテラシーの低さはコミュニケーションに直結するため、社会的葛藤の主な原因になる。社会的葛藤は、銃乱射と人種差別に苦しむ米国や内戦中の地域、韓国いずれも深刻だが、韓国の場合は若干異なる様相を帯びている。他の国々は“本物”の社会的葛藤を経験している一方、韓国はリテラシー不足による無駄な消耗戦を行っている場合が多い。しかもそれを「進歩対保守」という内容で、いわゆる知識人層が主導しているから、さらに困ったものだ。

 リテラシーは人間の条件であり、“常識に基づく社会”の基礎だ。リテラシーの低さは共同体の存続を脅かし、知的二極化や人間関係の困難など数多くの問題をもたらす。話が通じない社会に代案など存在しない。

分断体制とプラットフォーム資本主義

 分断体制の基盤は二分法であり、二分法は最もたやすく読解を不可能にする論理だ。言うまでもなく、韓国の低いリテラシーの根因は、分断と植民主義にある。“建国”以来、そして現在までも韓国社会のリテラシーの基準は外部だった。反米、反北朝鮮、親日(附逆)などと関連した言説が“命綱”であったり“反国家”であったりする社会で、果たしてリテラシーについて論じることができるだろうか。国家保安法は、国家が個人に行使する暴力であるという点で、人間と知識の両方を圧殺してきた。しかし、色分け論も国家保安法も、いまだに根強い生命力を誇っている。

 1965年3月、小説家のナム・ジョンヒョンは短編「糞地」を韓国の文芸誌「現代文学」に発表したが、作家も韓国当局も知らないうちに、2カ月後に北朝鮮労働党機関紙「祖国統一」に転載された。作家は「忠一企業社」という中央情報部乙支路(ウルチロ)対共分室(共産主義者を取り調べる所)に連行され、拷問を受けたあげく、反共法違反で拘束された。作品と関連した作家の拘束は、日本の植民地時代にもなかったことだ。このように事実関係自体がでっち上げられる状況では、リテラシーが働く余地はないだろう。

 ひと昔の話ではない。私は、文在寅(ムン・ジェイン)政権でもこのように敵味方を分ける陣営論理が横行するとは思わなかった。政権のせいではない。これまで韓国社会に内在していた“無知の力”が個人の利害とかみ合って爆発したのだ。中央情報部時代、歌手ヤン・ヒウンの歌「叶わぬ愛」は放送禁止歌だった。「愛が叶わないという否定的な考え方」に基づいているというのが理由だった。そもそも理解するつもりなどないのだ。今は個人が自ら理解を拒否している。リテラシーのない社会では、それも金儲けの手段になる場合があるからだ。 こうした点で現在の韓国社会のリテラシーは、光復(日本の植民地からの解放)直後や、米軍占領期、朝鮮戦争時代よりも後退した。

 話が通じない人との会話ほどつらいものはない。加えて、上下関係のためにそのような災いを避けられない時のストレスと怒りは体の免疫力すら低下させる。コミュニケーションがまったく不可能というのは日常になった。チョン・グァンフンやカン・ヨンソク、キム・オジュンなど、いわゆる「関種(クァンジョン:関心種者の略語、人々の関心を集めるために極端な行動をとる人)」と呼ばれる人たちは、自分の生計と名誉(?)のために、とんでもない発言で挑発を仕掛ける。彼らは虚言でお金を稼ぐ人たちだ。

 これと関連し「5行を超えるものは読みたがらないこどもたち」(ハンギョレ電子版、2019年8月13日付)が提示した代案を見てみよう。 「『ブックチューバー』(book+youtuber)が代わりに読んでくれるものよりは、子どもの手で直接紙の本を触ったり、声を出したりして、自ら本を読まなければならない」。重要な指摘だ。何かを学ぶ際には、体とテキストに触れ、それを感じ取って、体で覚えなければならない。ピアニストはピアノをただ見るのではなく、ピアノと一体化するまで弾く。一方、勉強は人が代わりにやっているのを見る時代になった。この対策を見つけるのは容易ではないかもしれない。プラットフォーム資本主義時代に電気(スマートフォン、コンピューターなど)や媒介を拒否する人は多くない。

 産業資本主義時代には、体を使って労働(勉強)をすることで、社会の構成員として認められた。得手不得手にかかわらず、労働は美徳であった。今は消費主体の時代だ。消費がすなわち労働である。オンライン空間に長く滞在しながら、自分の時間をポータルサイトに提供する消費行為が勉強(検索)になった。この大きな流れに逆らう気力があるだろうか。下方平準化が起きるのも無理はない。長文や少し不慣れな言い回しを目にするだけで、人々はストレスを感じる。根本的にリテラシーを高められる代案がないわけだ。違いがあるとすれば、それに向き合い補完しようとする社会がある一方、「情報技術(IT)大国」という言説で問題意識すらない社会があるだけだ。韓国は後者の代表的な国だ。

理解しようとする過程が融合

 「学問の漢字表記は『学問』である」、「シェイクスピアは俳優だった」、「『チャ山魚譜』には『シロザメ』と推定される魚類についての説明がある」。このように情報に近い文章は、リテラシーが問題になる余地が少ない。しかし、「古代に関する知識はほとんど近代に作られたものだ」、「女性と男性は実体ではなく社会的規範である」、「気候危機は自然を対象化した結果だ」、これらの場合はリテラシーの違いが出るだろう。

 通念に反し、リテラシーには知識の程度よりは価値観と態度が大きく影響する。初等教育の問題ではないということだ。学歴や学力とも無関係だ。男女や「フェミニストかアンチフェミニスト」を問わず、自分を知識人だと考える人はすでに読解の領域に入ることが難しい。先日、私は建設資本主義を批判し、空き家のリサイクルに関する文を書いたが、すぐに返ってきた反応は「要するに、オ・セフン(ソウル市長候補)に票を入れるなということですね?」だった。ある有名な男性知識人が性暴力加害者の肩を持つのを見かねて、被害者を助ける何人かと共にその男性を“説得”する手紙を書いたことがある。それを読んだ彼は、フェイスブックにこのように書いた。「大韓民国には私ほどのリテラシーを備えた人はいない。にもかかわらず、私にあなたたちの話が理解できないのだから、あなたたちに非があるのだ」

 リテラシーは理解力である。しかし、その“理解”の意味からして非常に複雑な問題だ。何かを知る最も基本的な特徴は意味の移動、つまり差移と、流着の繰り返し、すなわち融合であるからだ。理解する過程ですでに変化が起きているため、理解は本来不可能である。だが、マルクスが死ぬ前に「私はマルクス主義者ではない」と言ったことを思い出せば、少しは慰めになるかもしれない。マルクス主義自体が教祖的に受け入れられやすく、彼はレーニンのような政治家ではなく、思想家だったため、しかも当時は修正主義をめぐる議論が拡大していたことから、「私のマルクス主義はどこに行ってしまったのか」と嘆いたかもしれない。

 リテラシーは、自分の価値観と無知に対する自己認識の問題だ。そのため、リテラシーを高める第一歩はエポケー(epoche、判断の留保)だ。「私は知らない」が何かを知ることの始まりだ。理解するためにはまず自分の理解力を疑わなければならない。もちろん、我々の体にはすでに多くの意味が蓄積されているため、無知という仮定のためには多大な努力が必要だ。知るという行為が重労働であるのも、そのためだ。

 ほんの少し時間の判断留保、その一瞬の時間がどのくらいになるかは分からない。何かを知るのは自らを進化させる行為であって、是非を判断する行為ではない。知識を情報と見なす人たちは「教え込もうとするが」、知る過程を見せてくれる人たちは「教わるよう導く」。

筆者ㅣ 女性学研究者・文学博士。 物を書くことと読むことが好きだ。論文、批評、随筆、手紙、コラムなど文章のジャンルはないと思う。女性学研究者としての勉強の目的は、既存の論争構図と戦線を移動させることだ。フェミニズムと脱植民地主義の観点から韓国現代史を再解釈することに関心がある。携帯電話を使用しない。

//ハンギョレ新聞社

チョン・ヒジンㅣ 女性学研究者・文学博士 (お問い合わせ japan@hani.co.kr)

https://www.hani.co.kr/arti/opinion/column/994641.html韓国語原文入力:2021-05-1108:19
訳H.J

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