最近、日本軍「慰安婦」訴訟と日帝強占期(日本の植民地時代)の強制動員訴訟で相反する判決が相次いで言い渡された。
事実上の同一事案について複数の訴訟が提起された場合、裁判を行った複数の法廷でそれぞれ異なる判断を下すのは、裁判独立の原則上自然なことだ。すでに宣告された最高裁の判決が存在する中で、事実上の同一事案に対して下級審の裁判所が最高裁の判決に反する判断を下すことも、韓国の法制上許される。下級審のそれぞれ異なる判断は、上級審に豊富な視点を提供する。そうすることで上級審はより熾烈な検討を経て最終的な判断を下すようになる。すでに下された最高裁判決に反する下級審の判決は、最高裁の判例変更を導き、規範解釈を発展させたりもする。さらに、宣告された諸判決は市民社会に公開され、支持または批判を受けることになるが、これは民主的司法統制または司法の責任の観点から望ましい。したがって、日本軍「慰安婦」訴訟と日帝強占期強制動員訴訟で出ている相反する諸判決と、これをめぐる韓国社会の議論は、韓国の司法制度が予定しているところに従っているという点で、それそのものに意味がある。
ただし、この議論において、明らかな誤りまたは不当な観点は除外される必要がある。
第一に、日帝強占期強制動員訴訟で、被害者は日本企業に損害賠償を請求できないという一審判決が下されたことを機に、ヤン・スンテ元最高裁長官在任当時の強制動員訴訟に関して裁判所と政府、そして日本企業の代理人の間で交わされた非公開協議を正当化する見方が再登場している。いわゆる司法壟断事態の中でも最も深刻だとされるこの事案は、裁判所が政府や被告とともに原告を敗訴させる方策を秘密裏に論議して遂行したという点で、犯罪が成立するか否かにとどまらず、三権分立および裁判制度の根幹を揺るがすものである。
ある人はこれを「アミカス・キュリエ(Amicus Curiae、法廷助言人)」と呼ぶが、明らかに誤った主張だ。アミカス・キュリエは、裁判所が政府や被告とともに原告を敗訴させる方策を原告に知られぬように裏で議論するようなやり方では決して行われない。たとえ外交的事案に対する司法の自制が必要だとしても、それは適法な手続きによって行われなければならない。水面下で裁判所と政府と被告が原告を排除して原告敗訴の裁判結果を事前に決め、その結果が出るように裁判の進行のあり方を協議し、その水面下の協議に沿って芝居のように裁判を進行するやり方で司法が自制してはならない。それは民主主義と法治主義を採る国家のやり方ではない。三権分立と適法手続きの原則の毀損を擁護してはならない。
第二に、日本軍「慰安婦」裁判や日帝強制動員裁判の意味を「金銭賠償」へと矮小化して解釈する見方は不当である。裁判を担う過程で知った事実だが、民事裁判のことを単に「誰からであれ、金さえ受け取れれば勝ちの手続き」と考える当事者はめったにいない。裁判当事者のほとんどは、正当な権利を行使して相手に適切な金銭支払いの義務を負わせる手続きだと考える。一般的な金銭関係でもそうであるのに、人権侵害の被害者たちはなおさらであろう。
深刻な人権侵害を経験した被害者が加害者を相手取って損害賠償を請求する際には、金銭的に賠償されるという目的のほかにも、自分が経験したことが不法で不当な人権侵害だったということを公的に確認してもらうとともに、被害者の持つ正当な権利を行使して加害者に適切な責任を負わせるという目的も併せ持つ。こうした人権侵害の被害者の幅広い権利は、韓日を含む国連加盟当事国すべてが全会一致で採択した「犯罪及び権力濫用の被害者に関する司法の基本原則の宣言」にも規定されている。
自分が経験した被害の深刻さと違法性を公的に確認してもらえない状態にあって、祖国さえ彼らを忘れてしまっている時、彼ら自らが、自分の人生を貫いていた不法を確認し、加害者に対し公的な責任を問うために始めた裁判だ。被害者の主張が法理上常に正しいとは言えない。したがって、被害者たちの請求を却下した裁判所の判断に同意も表しうる。しかし、そのような立場であっても、日本軍「慰安婦」被害者や日帝強占期強制動員被害者が単に「金を受け取るために」裁判を受けていると解釈するのは、明らかに不当である。少なくとも、「もう韓国も豊かになったのだから、日本から金を受け取ろうというあさましい考えはやめよう」といった言い方で被害者を侮辱してはならない。何を主張するにしても、人間に対する礼儀は守り抜くべきである。
リュ・ヨンジェ|大邱地方裁判所判事 (お問い合わせ japan@hani.co.kr )