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[寄稿]「善きアメリカ」ふたたび

//ハンギョレ新聞社

 6月初旬のある日、東京の神田神保町(かんだじんぼうちょう)で、その映画を見た。

 神保町は出版社や本屋の集まる歴史の古い街である。私は若い頃よく、この街にある岩波書店本社を訪れた。当時、月刊雑誌「世界」の編集長であり、のちに同社社長に就任した安江良介さんは、韓国民主化運動のよき理解者であり、熱心な連帯者であった。私は30代の若者で、兄たちが韓国で投獄中だった。そんな私にも、大出版社の幹部であった安江さんは多忙な時間を割いて丁重かつ親切に接して下さった。安江さんはたんなる出版人にとどまらず日本政府の朝鮮政策を根本的に転換させるための実践的提言や行動を生涯にわたって続けたが1998年、惜しくも世を去られた。その出来事は、戦後の日本にわずかに存在した「善き日本」が終焉した瞬間のように私には感じられた。その感じは、20余年が過ぎた現在もますます濃くなる一方である。

 私が神保町をしばしば訪れたのは、安江さんにお会いすることをはじめ、さまざまな用件があったからだが、実はそれら用件自体よりも、この街の雰囲気そのものが好きだったからだ。古書店を何店か巡り歩き、古今の名著の背表紙を眺めるだけでも、自分の感性や知性がぐんと広がるような気がした。疲れたら薄暗い喫茶店の片隅に座って、買ったばかりの本をひらいた。夏ならば、「すずらん通り」の入り口にある老舗の中華料理屋で名物の「冷やし中華そば」を食べるのも楽しみだった。神保町は私に、知性に対する若い日の謙遜な憧れの気持と、当時はまだ生きていた「善き日本」の記憶とを呼び起こす。

 フレデリック・ワイズマン監督のドキュメンタリー映画「ニューヨーク公共図書館‐エクス・リブリス(EX LIBLIS-THE NEW YORK PUBLIC LIBRARY)を見て神保町の街に出てきた時、私にこの記憶がよみがえった。ただし、それは「善きアメリカ」の記憶である。「善きアメリカ」というのは、私が3年前、ドナルド・トランプが共和党大統領候補者指名を確実にした時に、このコラムで用いた言葉だ。「悪夢はまた一歩、現実に近づいた」と、私は滞在中のニューヨークでこのコラムに書いた。その悪夢の最中にあっても、私の知る「善きアメリカ」はなお奮闘中であるという趣旨であった。

 あれから3年余、トランプ政権によって見せつけられた悪夢は枚挙にいとまがない。最近私に吐き気を催させたのは、イスラエルのゴラン高原占領をアメリカが追認したこと、これに「感謝」したイスラエルのネタニアフ首相がこの場所を「トランプ高原」と名づけ、そこにユダヤ人入植地を開設するというニュースである。なんと恥知らずなことか!耐えがたいのは、その反知性主義が少なからぬ支持を集め続けている現実だ。最近の報道では、共和党支持層の中でトランプの人気は高く、大統領再選も有力だという。

 この映画は、ことし89歳になったドキュメンタリー映画の巨匠、フレデリック・ワイズマン監督の第41作である。私は「チチカット・フォリーズ」(1967)を含めて何作かは見ているが、とても全作品を見ることはできないままだ。個人的にもっとも好ましく思っている作品は「コメディー・フランセーズ‐演じられた愛」(1996)である。フランスの伝統ある劇団「コメディー・フランセーズ」の裏と表を描ききって、演劇芸術の真の面白さに出遭わせてくれる名作である。今回の映画では、本館を含む計92の図書館群から成る巨大な「知の殿堂」の裏と表を、実に生き生きと見せてくれた。

監督は語っている。「ニューヨーク公共図書館(以下、NYPL)は本を探したり、資料を閲覧しに行ったりするだけの場所ではなくて、住民や市民のための重要な施設なんだ。貧しく、移民が多く暮らす地域では特にね。……NYPLはもっとも民主的な公共施設なんだ。多様性、機会均等、教育といったトランプが忌み嫌っているもののすべての象徴でもある。この映画を撮影したのは2015年秋だから、トランプのことはまったく頭になかった。……でもトランプ選ばれたことで、もともとのテーマ選択とは関係のない理由から、政治的な映画になったんだ。」(監督インタビュー、同映画公式プログラムより)

 自らの意図とは無関係に「政治的な映画になった」というのは、ワイズマン監督の知性のありようが、それだけ深い意味で「政治的」であるからだろう。その知性は、トランプ的なるものの対極にある。だからこそNYPLのもつ真の価値に注目したのであろう。

 映画は3時間25分におよぶ長編だが、それでいて、見る者をすこしも飽きさせない。司書や利用者の姿はもちろん、運営をめぐって率直な議論を交わすスタッフ会議、図書館で催される演奏会やダンス教室、子どものための読み聞かせ教室やハーレム地区の分館で交わされる地域住民(大半が黒人住民)との対話など、流れに従ってみているだけで、良質な知的興奮へと導かれていく。私の印象にとくに強く残った場面だけ、簡単にあげておこう。

 この図書館では著者たちを招いて公開でトークを聴くイベントが行われている。たいへん自由で開放的な雰囲気だ。映画で紹介された講師陣の最初は、キリスト教原理主義をきびしく批判しているイギリスの進化生物学者・動物行動学者であるリチャード・ドーキンス博士である。ほかに、ミュージシャンのエルビス・コステロ、詩人のユーセフ・コマンヤーカ、女性ロックシンガーで「パンクの女王」の別名を持つパティ・スミス、陶芸作家のエドムンド・デ・ワールなどが登場する。マイルズ・ホッジスによる自作詩朗読も魅力に溢れていた。なんと豊饒なラインアップであることか。

1975年生まれのタナハシ・コーツ(Ta-Nehisi Coates)は「世界と僕のあいだに」で高い評価を得た若い世代の黒人作家である。私はかねて関心のあったこの作家の顔、声、語り口に、この映画で初めて触れることができた。彼は訥々とした口調で語った。「わが家ではマルコムXは神でした。この本のルーツはそこにあります」。彼の父のポールは、1960年代から70年代にかけて活動した黒人解放組織ブラック・パンサーの元党員であるそうだ。

 NYPL「黒人文化研究図書館」は、ハーレム地区にあり、黒人文化研究のための重要な拠点である。館長は創立90周年記念祝賀会の挨拶で、「図書館は民主主義の柱」というノーベル賞受賞作家トニ・モリソンの言葉を引用した。ハーレム地区の分館で行われた地域住民との対話では、教科書の記述に対する批判が論じられた。アメリカ南部に連行されてきた黒人奴隷について「移住してきた」という嘘が書かれている、という指摘である。これなどは日帝時代の「徴用工」「強制連行」「慰安婦」等をめぐる用語の、植民地宗主国側の歴史修正主義的用法に共通しており、私たちの直面している問題が世界的な普遍性をもつものであることにあらためて気づかせてくれる。

 こうした「重いテーマ」を扱いながら、この映画は終始楽しく、見る者に得難い解放感を与えてくれる。それは、トランプ流の自己中心主義、差別主義、金儲け主義などとは根本的に異なる世界観、知性のもたらす喜びの地平を見せてくれるからである。

徐京植(ソ・ギョンシク) 東京経済大学教授//ハンギョレ新聞社

 来日したNYPLの渉外担当役員キャリー・ウェルチは語っている。「今のニューヨークで一銭も払わずに安心して時間を過ごせる場所というのは図書館くらいしかありません。そこに行けばコンピューターも自由に使える。お金を全く使わなくても安全だと思いながら時間を過ごすことができる。そういった場所であり続けるということはとても大事だと思っています。」彼女はさらに、人間が互いに孤立してじっとスマホの画面を見ているような状況だからこそ、「物理的な場」としての図書館の重要性が圧倒的に増している、と付け加えた(同上公式プログラム)。

 私は前回のコラムで、「新自由主義的時間」に対峙する「図書館的時間」という理想について述べた。それがここに生きている。これがすなわち、人間が人間であるための「図書館的時間」である。「善きアメリカ」の命脈はいまだ断たれていない。「善き日本」はどうだろう? すでに死に絶えたのだろうか?

徐京植(ソ・ギョンシク) 東京経済大学教授(お問い合わせ japan@hani.co.kr )

韓国語原文入力:2019-06-27 18:42

https://www.hani.co.kr/arti/opinion/column/899637.html

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