年末の日程をやり繰りして、九州に3日間の小旅行をした。第一の目的は、福岡アジア美術館で開催中の「闇に刻む光‐アジアの木版画運動1930s‐2010s」という展覧会を見ることだった(2019年1月20日まで。その後群馬県のアーツ前橋に巡回予定)。
ただ、最大の目的は最終日に残しておいて、初日は田川(たがわ)市の市立美術館に向かった。副館長の文川(ふみかわ)さんが案内して下さった。ここで女性画家・上條陽子さんと、黒田征太郎、田島征三の3人展が開かれていた。上條さんは1月に神奈川県の相模原市民ギャラリーで「パレスチナ・ガザの画家を支援する交流展」を企画しており、会期中の1月20日に、私がトークを行う予定になっている。もっとも、招いているガザの画家たちが幾多の妨害を乗り越えて無事に来日できるかどうか、今のところ見通しは困難である。
美術館の隣にある田川市石炭・歴史博物館にも案内してもらった。ここは旧三井(みつい)炭鉱の跡地である。世界記憶遺産に登録された、山本作兵衛という炭鉱労働者が克明に描き残した記録画が保存されているほか、炭鉱村の人々の暮らしぶりを想わせる貴重な資料が展示してあった。屋外には鉱夫たちを乗せたケージ(鉄の篭)を地下数百メートルまで降ろした櫓(やぐら)が保存されている。地下に降りた鉱夫たちはそこから四方八方に伸びた坑道をたどって、危険な重労働に従事するのである。
もちろん、ここでも多くの朝鮮人が過酷な労働を強いられた。その末裔にあたる同胞たちがいまも住んでいる。博物館裏の高台に「韓国人徴用工慰霊碑」が建っていた。地元の在日同胞有志が建てたものらしい。
田川について語りたいことは多いが、話を最終日の木版画展に跳ばそう。この日は冷たい雨が降った。私たちは雨をよけて商店街のアーケードを歩き、途中、名物だという素朴なうどんを食べたりした。福岡アジア美術館は繁華街の大型ビルの7階にある。あたりを楽しげなカップルや家族連れが行き交う。その中に中国人や韓国人観光客らしい姿も多い。
美術館の広い展示室に入ると木版画独特の漆黒の画面の数々が視野に広がった。第1室でさっそく私にはなじみの、ケーテ・コルヴィッツ「カール・リープクネヒトの追悼」1919年‐1920年(福岡市美術館所蔵)が目に入った。およそ100年前、第一次世界大戦後のドイツ革命の最中に制作された。私は10代の頃から本の挿絵などでコルヴィッツに親しんだ。私だけではない、1950年代から60年代にかけて、日本で過ごした在日朝鮮人と日本人の少なからぬ若者にとって、それは決定的といえる刻印だった。その後、日本に二次にわたる安保闘争の昂揚が訪れて過ぎ去った。一方、70年代の韓国は維新独裁体制という暗黒期に突入した。たとえば1975年の第二次人革党事件被告8名に対する死刑執行などの報に接するたびに、私の脳裏に浮かんだのはコルヴィッツの作品であった。コルヴィッツによって刻印された情景が、現実のものとなったのだ。
第2室の展示は1930年代の中国と日本にヨーロッパの木版画が導入され、魯迅と、彼を助けた内山書店の人々のような進歩的日本人たちの多大な貢献により、中国の解放運動と結びついて隆盛を迎えたことを示している。Li Hua(李樺)「吠えろ!中国」(『現代版画』第14集、現代版画会(広州)、1935年12月、町田市立国際版画美術館所蔵)は帝国主義諸勢力による侵略と軍閥・封建制力の圧政に全身で反抗する人民の姿そのものであり、それは一時期の日本、韓国、ベトナム、インドネシア、インドその他の諸民族の姿でもある。展示の第3室は1940年代から50年代の日本、第4室は同時期のインド・ベンガル地方(「土地を奪還せよ」)、第5室は1950年代から60年代のインドネシア、第6室は同時期のシンガポール、第7室は1960年代から70年代「ベトナム戦争の時代」、第8室は1970年代から80年代のフィリピン、第9室は1980年代から2000年代の韓国民主化運動、最後の第10室は2000年代以降のインドネシアとマレーシアとなっている。すべての作品に言及することはできないので、最後の部屋のインドネシアの作品を紹介しよう。作者名のタリン・パディは個人名ではなく、1998年に美術学生運動から生まれた活動集団の呼称である。
【Taring Padi(タリン・パディ) 「あらゆる採掘は生活をおびやかす」2010年(福岡アジア美術館所蔵)】 なんという混沌、なんという圧倒的な密度! しかも、彼らの集団芸術は特定の党派やイデオロギーとは無縁なところで、「多様性」「寛容」「反汚職」「労働者の権利」などをテーマに現場でつくり出されたものという(徳永理彩とくながりさ)。
100年前のドイツに源流をもつ木版画運動の水脈が、ある時は奔流となり、ある時は伏流となりながら、途絶えることなくアジア各地の民衆運動の現場に伝播したことが一目瞭然である。中国、日本、韓国については不十分ながらある程度の予備知識があった(したがって本稿での言及は少ない)が、他の地域については初めて知ることが多かった。それでも、いずれも私にとっては否応なく懐かしさのような感情を覚える作品だ。
田川の炭鉱跡から地下数百メートルの坑道をたどり、半世紀を超える時間を超えて、ここに抜け出たような幻想を覚えた。【千田梅二「題不詳」『地下戦線』第4号(1953年12月、田川市美術館所蔵)】
その坑道は私の想像の中で、ここから玄界灘を潜って朝鮮半島に達し、さらに中国大陸へ、東南アジアへ、インドへと伸びている。さらにはパレスチナのガザにも。資本家や権力者は明るい地上や空中をわが物顔で往来するが、汗と炭に汚れた者たちは、この地下の坑道を往来し、「おーい、生きてるか?」「ここだ、生きてるぞ」と呼びかけ合うのである。
水沢勉(みずさわつとむ)の指摘するとおり、「1999年の開館以来、関連する作品や資料を体系的に収集し、調査してきた福岡アジア美術館の研究活動の蓄積がなければ本展の実現は不可能であった」(同展図録)。同館運営部長・黒田雷児(くろだらいじ)が同展図録に寄せたエッセー「アジアの木版画運動‐民衆的メディアによる近代化の系譜」は、この分野では稀な必読の力作といえる。黒田はアジアの近代美術史を見る際に、従来のような西洋発、日本経由の「垂直的降下」ではなく、アジア内部の「水平的交流」に着目すべきであるとする。そして、アジア美術「近代化」を「主体化」のプロセスとして木版画の視点からとらえることを提唱する。黒田のいう木版画運動とは、「美術家が自分の作品を「展覧会」以外の手段で広範な観衆に届ける、制作と普及が一体化した美術家の自発的・自立的な行動を意味する」。「木版画では指や腕の力で固い物質を刻み、その版を黒で摺れば、力の痕跡が闇の中に光として現れる。いわば「苦悩を通した歓喜」をもたらす木版画の特性が、アマチュアを含む創作者=主体による物質への、社会状況への、さらには権力への抵抗により、様々な抑圧や桎梏からの解放を求める政治・社会闘争に結びついたのではないだろうか。」
このような黒田の記述自体が、日本における美術界の主流からかけ離れたこの展覧会のコンセプト同様、反時代的なものに見えるかもしれない。解放運動の熱気が失われてすでに久しい日本においてはとくにそうであろう。だが、この展覧会は、地底にいまも地熱が充満していること、それが時ならず、思いがけない場所で噴き上げることを私たちに教えてくれる。この展覧会を見ることは、多くの人がすでに消滅したと思っている「何か」が、闇の奥から「まだ生きてるぞ!」と呼びかけてくるのを聴くような経験である。
展覧会場を去る時、平均40歳ほどの年齢に見える10数名の韓国人女性グループが楽しそうに並んで記念撮影をしている場面に遭遇した。福岡は韓国人観光客の定番コースである。おそらく旅行日程にこの美術館が繰り込まれていたのだろう。彼女らがこの美術館で、かつて自国で展開した民衆美術運動の代表作をどのように見たのか、知りたいと思った。それ以上に、フィリピンやインドネシアの民衆運動の図像をどう見たのか、知りたかった。「まだ生きているぞ」という声は彼女らの耳に届いたのか。歩み寄って話しかけたいと思ったのだが、彼女らの明るい笑い声に気おされて、実行することはできなかった。戸外に出るとあたりはすっかり夜のとばりがおり、冷たい雨が降り続いていた。
韓国語原文入力:2019-01-03 18:31