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[寄稿]来るところまで来た

登録:2017-06-18 11:22 修正:2017-06-19 11:33

 詩人・尹東柱が解放の日をみないまま福岡刑務所で獄死したのは72年前のことである。彼の命は治安維持法によって奪われた。判決文によると、彼はいとこの宋夢奎ら朝鮮人学友たちとともに、「日本の敗戦を夢想し、その機に乗じて朝鮮独立の野望を実現するべきと妄信」したという。ただし、この目的のための具体的な行動は何もしていない。ただ、心に朝鮮独立の夢を抱き、そのことを友人たちと語り合ったことが罪とされた。まさに人の行為ではなく、その内心を処罰するところに治安維持法の恐ろしい本質がある。

詩人・尹東柱と代表作「序詩」を含む自選詩集『空と風と星と詩』//ハンギョレ新聞社

 「日本はとうとう来るところまで来た」、このところそういう感が深い。

 とくにそう感じる最近の出来事は、法務大臣が6月2日の国会答弁で、悪びれることもなく、かつての治安維持法は「適法に制定」されたものであり「損害賠償も謝罪も実態調査」もしない」と答弁したことだ。同法は「私有財産制の否定」と「国体(天皇制)否定」を目的とする結社を禁じたものであり、大日本帝国における思想犯・政治犯弾圧の主要な武器であった。著名な小説家小林多喜二や哲学者三木清、創価教育学会(現・創価学会)や大本教など宗教団体も弾圧され、拷問死、獄中死の犠牲者も数多い。そのため、日本軍国主義の象徴ともいうべきこの悪法はポツダム宣言受諾とともに占領軍総司令部の要求によって廃止され(1945年10月)、弾圧に猛威を振るった特高警察も廃止されたのである。その治安維持法が「適法」なものであったと、法相が国会で答弁したのだ。

 「日本は来るところまで来た」と私が感じるのは、治安維持法の再現と批判される「共謀罪」法案をめぐる質疑の中でこの答弁が淡々と行われ、今のところ世論もさほど敏感には反応していないからである。しばらく前までの政権なら、たとえ口先だけでも「治安維持法は過去における行き過ぎであった、現在の日本社会は過去とは違う」といった修辞で批判をかわそうとしたであろう。しかし今ではその必要すらも感じないらしく、実にあっさりと「本音」をさらけ出した。

安倍晋三首相//ハンギョレ新聞社

 福島原発事故の翌年である2012年12月、「戦後レジームからの脱却」「日本を取り戻す」をスローガンに第二次安倍政権が出帆した。以来5年、この政権による日本の極右化、全体主義化は止まるところを知らない。2013年には「特定秘密保護法」、2015年には安保法制を、いずれも強行採決で成立させ、現在は通称「共謀罪」が国会審議の最終段階を迎えつつある。次には、いよいよ憲法改悪が待ち受けている。2020年の東京オリンピックの年までに憲法の改悪を実行すると、さる5月3日の憲法記念日に安倍首相自身が公然と宣言した。一方で、安倍首相自身とその妻、友人を巻き込む巨大疑獄事件の疑惑が強まっている。この件をめぐる野党や世論の追及をかわすため、安倍政権はなりふりかまわぬ隠蔽と威圧を続けている。

 1925年に公布された治安維持法は朝鮮、台湾などの植民地にも天皇の勅令により施行された。「朝鮮独立の企て」は「国體変革」の罪に該当するとして、同法は日本人に対するより何倍も苛酷に朝鮮人に適用された。日本本土では同法による死刑判決はなかったが、朝鮮では、1928年、「斉藤実総督狙撃事件」の2人に始まり、30年「5・30共産党事件」22人、36年「間島共産党事件」18人、37年「恵山事件」5人など、死刑判決が連発された。(水野直樹「日本の朝鮮支配と治安維持法」)。治安維持法は朝鮮植民地支配のための主要な暴力装置だった。それが「勅令」で朝鮮に施行された以上、この件だけをもってしても、天皇制および天皇ヒロヒト個人は朝鮮植民地支配の責任を免れることはできないはずだが、日本人の多くにその自覚はない。

 荻野富士夫の研究(『特高警察』)によると「(転向問題で特高警察のとった立場の)大前提には思想犯罪者といえども「日本人」であるゆえに「日本精神」に立ち返るはずだという見通しがあった」。この話を聞いたナチ党高官ヒムラーは、日本人は暴力で強制しなくてもすすんで転向するのかと、「うらやんだ」という。このことは「やまと民族」でないもの、朝鮮人や中国人には、「日本精神」に立ち返る「見通し」がないため、もっぱら苛烈な暴力で制圧するか除去するしかないということを意味する。欧米帝国主義の侵略正当化イデオロギーである「ヨーロッパ的普遍主義」(ウォーラステイン)を模倣した日本帝国主義者は、そこに「八紘一宇」や「大東亜共栄圏」といった「日本的普遍主義」を付け加えた。もちろんこれは真の普遍主義ではありえない。しかし、彼らの観点からすれば、それを受け入れない者たち、朝鮮人などアジアの被侵略民族は「日本精神」の崇高な普遍性を理解できない劣った連中であり、ただただ侮蔑的・暴力的に扱う対象でしかなかった。

23日、日本の国会議事堂前で市民が「共謀罪」国会通過に反対するデモをしている。市民が持っている横断幕には「自由を奪う共謀罪はいらない」と書かれている=東京/AP聯合ニュース

 私は昨年インチョン・ディアスポラ映画祭で李濬益監督の映画「東柱」(2016)を見たが、特高警察による取り調べのシーンで、刑事がしきりに朝鮮民族の独立志向を「感傷」にすぎないと高みに立って説教する場面は上記のような事情をかなりリアルに捉えていると思った。ただしこの映画後半の、日本人女子学生が尹東柱詩集の英訳版を出そうとして献身的に努力するという架空の設定には違和感が残った。尹東柱は当時の日本人たちの中で徹底的に孤立していただろうし、周囲の日本人に彼の心を理解するものはほとんどいなかったと思うからだ。だからこそ、「窓辺に夜の雨がささやき/六畳間は他人の国…」(たやすく書かれた詩)という詩句がなおさら胸にしみるのである。福岡刑務所で獄死の寸前にあげた最後の叫びすらも、その意味を聞き取ったものは誰もいなかった。

 詩人は自分の母語で詩を書くことすら禁じられた。証拠品として押収された未発表原稿は永遠に失われてしまった。しかも刑事から暴力を振るわれ、嘲笑され、理不尽な説教をされ、異国の監獄で死ななければならなかった。その悔しさ、悲しみ、怒りはいまも多くの朝鮮民族に共有のものである。なぜその悔しさ、悲しみ、怒りはいつまでも過ぎ去らないのか?それは加害者たちがすこしも責任を自覚せず、過去を反省せず、それどころか治安維持法は適法であるなどと平然と公言しているからである。治安維持法が適法であり、犠牲者について調査も謝罪もする必要も認めないということは、敗戦とポツダム宣言受諾という歴史的事実そのものを否認することを意味する。朝鮮・台湾など植民地を日本が放棄したのはポツダム宣言受諾によってであった。つまり彼らは植民地支配の責任も決して認めないと宣言しているのと同じである。

 日本軍慰安婦制度の追及すら不徹底なままの私たちは、治安維持法等による政治弾圧にまで、ほとんど手がまわらないままである。解放後、統一体としての朝鮮民族が主体となってしっかりと真相究明と責任追及を行うことができていたなら、こんなことにはならなかったであろう。民族が分断されたことが、日本の極右派と歴史修正主義者を利する結果となった。嘆かわしいことである。しかし、いまからでも、この作業を始めるべきではないだろうか。

 このような状況の下、日本における排外主義の矛先はますます「韓国人」「朝鮮人」に向けられている。毎日新聞の報道によれば、去る5月23日、名古屋市南区の在日朝鮮人系信用組合に男が押し入り、灯油に浸した布に火を付け、灯油の入ったポリタンクとともにカウンター内に投げ込むという事件があった。幸い、火は従業員が消し止め、人的被害はなかったが、ひとつ間違えば大惨事になったはずである。警察に出頭した容疑者(65)は、「慰安婦問題について前から韓国に悪いイメージを持っていた」と供述しているという。もはやヘイトスピーチの域をはるかに超えた、紛れもない「テロ」事件である。これ以上の拡大を防ぐために日本政府はこのテロ行為を断固として非難し、再発防止に努めることを宣言すべきである。しかし、そういう行動がとられていない。

徐京植東京経済大学教授

 安倍首相のお気に入りである稲田朋美防衛省大臣と極右排外主義団体「在特会」との親密な関係が去る5月30日、最高裁において認定された。両者の関係を報じた週刊誌を長官側が名誉棄損で訴えていたのだが、その敗訴が確定したのである。アメリカに置き換えてみると、国防長官とKKKとの親密な関係が認定されたようなものである。すくなくとも長官辞任に値するスキャンダルだが、日本では今のところさして大きな問題ともされないままだ。在日朝鮮人は、このような社会で不安を抱えて生きていかなければならないのだ。

 いうまでもないことだが、私がこう述べるのは、朝鮮民族と日本人との間に対立や離間をもたらすためではない。かつての治安維持法の被害者となった日本人とその関係者、現在の共謀罪法案に抵抗している日本人たち、大日本帝国の再現に反対している日本人たちと、民主主義や平和といった普遍的課題を共有して連帯するためである。東アジアに過去の悪夢を再現させないためである。

徐京植(ソギョンシク)東京経済大学教授(お問い合わせ japan@hani.co.kr )

韓国語原文入力:2017-06-15 19:08

https://www.hani.co.kr/arti/opinion/column/799015.html

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