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[コラム]チェ・スンシルの背後にまだ誰かがいる

登録:2016-11-08 23:14 修正:2016-11-09 06:32
6日午前、崔順實氏が検察調査のために護送バスから降り、ソウル瑞草洞のソウル中央地検に向かっている。カメラを避けるため後ろ向きに護送バスから降りているところ=共同取材写真//ハンギョレ新聞社

 朴槿恵(パク・クネ)大統領がハンナラ党(セヌリ党の前身)代表であった2005年のことだ。野党代表として中国を訪問し、胡錦濤主席と会ったことがある。その時モンゴルからも招請され、胡錦濤主席に面談した直後、ウランバートルに移動してモンゴル大統領との晩餐の日程を組んだ。朴槿恵代表が参加した会議でのことだ。外交日程なので直ちに駐韓モンゴル大使館にも通知した。ところが1時間ほど後に外に出て行った朴代表から突然電話がかかってきて、モンゴルでの日程を取り消すよう指示した。理由を訊いても返事はなかったという。それを見ていた党役員は「党外の誰かが朴代表の心を動かした」と考えた。それが「鄭允会」(チョン・ユンフェ)だろうとつぶやいた。

崔順實氏が8日未明、ソウル瑞草洞のソウル中央地検で調査を終え、拘置所に戻るため護送バスに搭乗するため車椅子に乗り移動している。崔氏が緊急逮捕された以後、マスクを着けない姿が写真に撮られたのは初めてだ/聯合ニュース

 今になってみれば、それは「鄭允会」ではなく「崔順實」(チェ・スンシル)だったことになる。鄭允会氏は崔順實氏の夫だったので、権力の一端を享受しただけだ。その上、崔順實氏と別れてからはそれすら無くなってしまった。朴大統領の「陰の実力者」は崔順實氏だったということは、最近明らかになったことだ。しかし、疑問は残る。

 朴大統領と親しかった人々は「人事介入や利権介入程度は十分にありうるが、重要な政策決定にまで崔順實氏が介入したということは信じ難い」と話す。鄭允会氏にしても崔順實氏にしても、政策を扱えるような人物ではないという話だ。いくら諮問教授チームを設けたとしても、最低限その内容を調整できる水準でなければならない。2012年の大統領選挙当時、朴槿恵候補が遊説に行く時は、先頭には常に警光灯を付けた黒いジープが先導した。警察が派遣した警護チームではなかった。ある議員が気になって“門番3人組”に尋ねたところ、「ボランティアの警護員」だという返事が返ってきた。この議員は「鄭允会が私設警護チームを率いているんだな」と感じたという。そう思うほど鄭允会・崔順實夫婦はまるで衣服のように朴大統領と密着していた。だが、大統領の頭になったということには、多くの人が首をかしげる。

 十分知られているように、朴大統領は長官や首席秘書官の対面報告をほとんど受けなかった。官邸で報告書を読むだけで、政策決定を一人でした。極めて稀だが、大きな論議が予想される政策についてのみ、長官と首席秘書官を呼び一緒に議論したという。このようにして決定された政策も、一晩で覆るケースがあった。2013年9月、陳永(チン・ヨン)保健福祉部長官の辞退を招いた「基礎年金改編案」の決定過程がそうだった。基礎年金支給の金額と範囲を国民年金と連係させて縮小しようというのが改編案の骨子だった。陳永長官は大統領の選挙公約放棄になるとして改編案に反対した。朴大統領が長官と雇用福祉首席秘書官を呼んだ。この席では福祉部の意見に理があるとして、大統領が福祉部案を受け入れたという。ところが翌朝、大統領は突然「基礎年金縮小」を福祉部に通知した。夜中に心変わりしたのだ。前日に大統領府での会議の内容を伝達され、後続作業を準備していた福祉部は大騷ぎになった。当時の状況をよく知っている福祉部関係者は「誰が大統領に吹き込んだのだろうか。誤った決定でも、下すためには内容をある程度は把握していなければならない。崔順實氏がそうしたとは思えない」と話した。

パク・チャンス論説委員//ハンギョレ新聞社

 父親の権力運用を見て育った朴大統領は、水平的ではなく自身を唯一の頂点とする垂直的な権力体系を構築した。その中心に朴大統領が、そしてすぐ脇には崔順實氏と門番3人組がいる。金淇春(キム・ギチュン)元秘書室長や崔ギョン煥(チェ・ギョンファン、ギョンは日の下に火)、李貞鉉(イ・ジョンヒョン)議員はその外側の同心円どこかに位置しているだろう。第3の別の人物がいるならば、それが誰なのか、ただ朴大統領だけが知っている。特検でも国政調査でも朴大統領に対する調査が崔順實氏問題に限定されてはならない理由だ。

パク・チャンス論説委員 (お問い合わせ japan@hani.co.kr )
https://www.hani.co.kr/arti/opinion/column/769341.html 韓国語原文入力:2016-11-08 19:03
訳J.S(1765字)

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