資本の理念家までが便乗して自分たちの理念宣伝を「人文学」と包装するほどに韓国人にとって人文学は重要だ。 それなら果たして何が「危機」なのか? 人文学に「競争力がない」と言うけれど、人文学が自然科学と「競争」するということは一人の人間の頭と手が互いに「競争」しなければならないという話と変わらない。
韓国は大卒者の30%以上が理工系だ。 ノルウェーでは15%にしかならず、米国はもっと低い。 ブラジルは10%より若干高い。 韓国政府が3年間に2012億ウォン(約188億円)を投じて「人文社会倫理体育系列の定員を理工系列に調整するよう誘導する」プライム事業を実施する。 すでに少数である集団を、金でさらに減らすほどに人文学が恐ろしいのか?
約半年前のことだ。 ある学術会議に参加するために数人のロシア人同僚とともにソウルに行った。 宿舎から会議会場に移動する時、皆が同じ小型バスに乗ったが、運転台の脇に置かれている『一冊で読む史記』という本を見た。 ロシア人の同僚にその運転手が約2千年前の中国史家の著書を面白く読むと言ったので半信半疑だったようだ。 ロシアでならば、運転手が古代史を読みふけるなどということはソ連時期にはありえることだったが、現在はほとんど想像することすら難しい。 人文学教養を読む余裕が次第に蒸発していく新自由主義時代に、韓国の大衆が持つ人文学に対する愛情は世界でほとんど独歩的だ。 私が暮らすノルウェーでも、人文学学徒以外に私が知っている多くの一般の人たちはかの有名な「バイキング時代」についてほとんど関心がない。 中世ノルウェーに対しても同じで、関心が向かうとすれば現在性が強い現代史程度だ。 それでノルウェーの人々に韓国では『一冊で読む朝鮮王朝実録』のような中世史教養書がほとんど200万部も売れたという話をしても、誰もその事実を信じようとしない。 このような販売部数を記録するのは、北ヨーロッパであれば専ら推理小説と児童物であるためだ。
先祖の「習えなかった恨」のためか、集団意識の相当部分を歴史談論が占めたからなのか、韓国人の人文・教養熱風は強烈だ。 問題があるとすれば、資本と親資本知識人らがこれを利用することこそが問題だ。 書店街で常にベストセラーコーナーを占領している自己啓発書を見れば、これこそが人文学の仮面をかぶった資本主義イデオロギーの宣伝だとは思う。 自己啓発書の大部分は、近代初期に日本と朝鮮で開化論者の間でヒットしたサミュエル・スマイルズ(1812~1904)の『自助論』の亜流の域を出ない。 その核心の主張は概して変わらない。 「努力すればできる、社会を変えることはどうせできないのだから自身を変えなさい、感情を調節し肯定的に思考しさえすれば道は開かれる…」。 就職放棄者や就職準備者まで含む体感青年失業率はすでに34%を超えた惨劇のような状況で、「努力万能論」は非現実的でもあるが、『つらいから青春だ』のような語法ははなはだ反社会的であり非道徳的だ。 青年まで含めて納税者が国家に税金を納付する理由は、国家が青年雇用対策などを通して市場が不可避的に与える「つらさ」を緩和しなければならないためではないのか? 「つらいから青春だ」式の語法は、国家の責任遺棄に対する合理化に過ぎない。 どれほど「立ち止まって自身の内面を覗き見」て、どれほど「自分の心の中の怒りを調節」しても、どれほど「邪念を払」っても、どれほど霊的な人であっても、青年失業や「情熱ペイ」などの搾取問題を解決することはできず、個人的解決を勧告するのは広義の大衆欺瞞に過ぎない。 もちろん、努力も意志も瞑想も欲望を減じる知恵も一人ひとりには必要だが、このような一人ひとりの自己調節が社会の中で多数の悲劇を共有するほかない一人ひとりの運命を画期的に変えられると主張することは正露丸で癌を治療する試みと同じだ。
資本の理念家までが便乗して自分たちの理念宣伝を「人文学」と包装するほどに韓国人にとって人文学は重要だ。 それなら果たして何が「危機」なのか? 人文学に「競争力がない」と言うけれど、人文学が自然科学と「競争」するということは一人の人間の頭と手が互いに「競争」しなければならないという話と変わらない。 ただ互いに機能が異なる二つの分野であり、正常な社会でなら相互補完すれば良い。 「競争力不足」という話は、結局「人文大出身就職率低調」に帰結されたりする。 「就職率低調」という話をより直接的で現実的な表現に変えるなら、大企業が率先垂範して人文学専攻者を差別しているという話になる。 実際、いわゆる「4大グループ」の新入社員採用情報を分析してみれば、70~80%は理工系出身だ。 他の企業も概してこのような財閥企業の慣行に従う傾向であり、人文学専攻者は韓国社会に多くある被差別集団の一つになるという話の方がより率直な叙述だろう。
差別を解消する方式は色々ある。 例えば社会は-各種の国庫支援金を色々な名目で受け取り種々の税制恩恵を受けている-大企業に新入社員の公正採用を要求することもできる。 特別な技術知識を必要とする純粋技術職でない以上、企業が各系列の専攻者を均衡登用することも社会の正義の実現方法ではないか? これと同時に、人文大出身に対する雇用対策準備を、人文大出身を含めて皆から税金を徴収する国家に要求することも可能だ。 事実、私が在職するオスロ大人文学部の卒業生の場合には、学士卒業者の43%、そして修士卒業者の59%は公共部門に就職する。 人文学専攻者たちは、各種の博物館やアーカイブ、公共生涯教育センターや公共研究機関で必要なので、人文学部の就職率は80%に達する。 したがって就職率低調が「危機」の内容ならば、人文学徒に対する国家的雇用創出がなされるよう闘争を行うのは妥当だろう。
ところで、税金を納付していながらも不当な差別に遭う人々が、その税金を受け取りながらも何の差別解消対策も取らない国家に抵抗するのは正常な社会での話であって、大韓民国の事情はその正反対だ。 人文学専攻者が差別を受けるならば、韓国ではその解消対策は被差別集団を一層萎縮させることだ。 事実、韓国は大卒者の30%以上が理工系だ。 ノルウェーでは15%にしかならず、米国はもっと低い。 ブラジルは10%より若干高い。 このように資本の拡大再生産、そして企業の利潤抜き取りと直結する専攻比率がすでに高いのに、国家が先頭に立って人文学をさらに萎縮させている。 最近、韓国政府が3年間に2012億ウォン(約188億円)を投じて「人文社会芸術体育系列の定員を理工系列に調整するよう誘導する」プライムという事業を推進している。 21大学を選定し、莫大な資金を投入し、2626名の人文社会系列定員を含め「非経済的」学科定員を減らそうとしているのだ。人文学特有の反乱性は、この国家ではすでに少数である集団を金を投じてさらに減らすほどに、それほど恐ろしいのか?
同じ資金を社会的な人文インフラ構築に投資して、新進気鋭の人文学徒に例えば公共部門が運営する各種児童課外教育機関、人文学サークルなどで子供たちに人文学に対する愛の種を撒こうとは考えないのだろうか? 私にしても一生をかけて歴史と縁を結ぶことになった理由の一つは、幼時に5年間も中高等学校に通って同時に国家が運営する考古学サークルで毎週2回ずつ国立大学の史科を出た先生の指導を受け、歴史の勉強の面白さにどっぷり浸かることができたためだ。 韓国よりはるかに貧しい北朝鮮でも、子供たちにこのような方式で幼時から人文学的素養を積む機会を国家が提供している。 韓国の保守は、ソ連や北朝鮮を通常「全体主義」と罵倒するが、すべての教育機関を考試院や就職塾のように一律運営することこそが全体主義的発想ではないのか?
1990年代後半以後、「BK」(頭脳韓国)や「HK」(人文韓国)事業のように、主に非正社員の席を量産し人文学徒を徹底した統制を受ける論文生産機械に仕立てることは「人文学危機」の解消ではなく人文学を官の統制下に置き、その魂を殺すだけのことだ。 繰り返しになるが、「人文学危機」は存在せず、政府の政策が計画的に深化させる人文学に対する官と企業の差別があるのみだ。 人文学徒がこのような状況を直視して人文学の公共価値に重点を置いて「人文学しやすい社会」を作る戦いに立ち上がらなければならない時だ。
朴露子(パクノジャ、Vladimir Tikhonov) オスロ国立大教授・韓国学(お問い合わせ japan@hani.co.kr )
韓国語原文入力:2016-05-17 19:19