1970年12月7日午前7時、ポーランドのワルシャワにあるジャメンホッファ街のユダヤ人慰霊塔。初冬の雨が涙のように慰霊塔をぬらしていた。西ドイツのヴィリー・ブラント首相が、その慰霊等の前に立った。 1943年のワルシャワのゲットーでナチスに対抗し、28日間蜂起したものの、惨殺された約5万6000人のユダヤ人たちを追悼するための塔だ。しばらく頭を下げていたブラント首相が後ずりした。儀礼的な参拝が終わったと思った一部の記者たちも、その場を去ろうとした。その時、ブラント首相が慰霊塔の前で突然跪いた。カメラのフラッシュが凄まじい勢いで光を放った。ブラント首相は何も言わなかった。西ドイツがポーランドとの関係正常化のためにワルシャワ条約を結ぶことになっていた同日の朝、ブラント首相はナチスドイツの過ちについて全身で謝罪したのだ。ナチの強制収容所の生存者だった当時のポーランドのユゼフ・ツィランキェヴィチ首相は、次の目的地に移動する車の中でブラント首相と抱き合って泣いた。彼は言った。「許す。しかし、忘れない(Forgivable、but Unforgettable)」。その後ポーランド人はワルシャワにブラント広場を作って、跪いたブラント首相の姿を収めた記念碑を立てた。謝罪と許すこと、そして和解とは、このようにするものだ。
ドイツが永遠の反省を誓ったように
歴史は終止符のない省察の対象
1回のリップサービスで終わるものではない
少女像の移転の受容も「早まった判断」
2015年5月3日、ドイツのメルケル首相が最初のナチス強制収容所であるドイツ・バイエルン州のダッハウ収容所を訪れた。この日も、小雨が降っていた。メルケル首相は追悼の辞でこう誓った。「私たちは被害者と自分自身と、将来の世代のために、これを忘れない」。メルケル首相は前日の第二次世界大戦終戦70年に合わせて公開したビデオメッセージで「歴史に終止符はない」と宣言した。ポーランドのアウシュビッツ収容所の解放70年記念日を翌日に控えた1月26日にベルリンで行った演説では、「ナチスの蛮行を憶えていなければならないのは、ドイツ人の永遠の責務」だと宣言した。
半世紀前にブラント首相がすでに謝罪して“許し”を得たが、ドイツは謝罪と反省を止めない。ユダヤ人たちもホロコーストを記憶することを止めない。歴史の省察と反省とは、このようにするものだ。歴史とはたゆまぬ省察の対象であって、核兵器のように不可逆的な廃棄の対象にはなり得ないからだ。
2015年12月28日、朴槿恵(パク・クネ)政権と安倍晋三政権は日本軍「慰安婦」被害者の問題の「最終的かつ不可逆的な解決」を宣言した。その直後、安倍首相は首相官邸で行われた記者会見で「おわび」と「反省」には触れず、「先の世代の子供たちに謝罪し続ける宿命を背負わせるわけにはいかない」と強調した。安倍首相は「合意に『最終的かつ不可逆的な』という文言が盛り込まれない場合は、交渉をやめて帰ってくるように」と岸田文雄外相に指示したという(読売新聞29日付)。岸田外相は、日本の記者団に 「(日本政府の予算拠出は)賠償ではない。道義的責任ということに変わりはない。(今回の交渉で日本側が)失ったものがあるとすれば、10億円だろう。予算から拠出するものだから」と述べた。
日本側の関心事は、法的責任を認めることや謝罪、反省ではない。ただ“10億円とリップサービスの代わりに、二度と韓国がこの問題を口にしないようにする”ということだけだ。
にもかかわらず、ユン・ビョンセ外交部長官は「交渉の妥結を嬉しく思う」と述べており、外交部の高官は「今の状況で最善の案」だと自賛した。今回の合意を最終決定した朴槿恵大統領は「韓 日関係の改善と大乗的見地」を掲げて「被害者の方々と国民の理解」を求めた。「被害者と国民が納得できるレベルの合意」を口が酸っぱくなるほど強調してき朴槿恵政権が「(発表内容を)全部無視する」(イ・ヨンスさん)、「あんなに苦労して待ち続けたのに...私たちは、お金よりも名誉を回復してもらいたい」(イ・オクソンさん)という、被害者ハルモニ(お婆さん)たちの悲痛の叫びになんと答えるかが気になる。国際人権法や規範によると、加害国と被害国の政府が「被害者の同意なく」その被害について合意することはできない。
朴槿恵政権のホコリのような軽薄な歴史認識は、日本大使館前の「平和の少女像」を撤去と移転を求める安倍政府の要求を、事実上受け入れたことにも表れている。政府関係者と一部の専門家たちは、この問題を「枝葉末節、付随的事案」と見なしている。しかし、「平和の少女像」は「(1210回にわたる)水曜集会の精神を称える生きた歴史の象徴」(挺対協声明)であると共に、歴史を省察する世界市民の切実な心が込められた歴史の証言者でもある。決して枝葉末節ではない。
韓国語原文入力: 2015-12-29 19:40