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[特別寄稿] 加害者たちの地で

登録:2014-10-10 21:40 修正:2014-10-11 07:04
ホン・セファ協同組合「カジャンチャリ(周縁)」理事長
ホン・セファ協同組合「カジャンチャリ(周縁)」理事長

 フランスの世論調査で66%の回答者が近い将来に社会爆発が起きると予想した。 『ルモンド』や『フィガロ』などは分析記事とともに、解決法を尋ねるインタビューを載せた。 私が見慣れている韓国メディアでよく目にする扇動とか陰謀のような単語はそこには見られなかった。 為政者がかたくなに傲慢にはなれない国だという気がしたのは、韓国の現実と見較べたからだろう。

 あの4月16日から、いつのまにか半年近い歳月が流れた。 その歳月の涙ぐましい叫びに世の中は無慈悲にも応えようとしない。 誰だったか、この時代は木を歌うことさえできない時代と言ったあの人は。 また、誰だったか、全く同じ話を繰り返さなければならないからと申し訳なく思わざるをえない時代とは、いったいどんな時代なのかを尋ねた人は。これ以上は悪くならないと信じた世の中は、果てしもなく奈落に堕ちていて、私もまた全く同じ話を繰り返していて、照れくささと共に読者に対する申し訳なさを感じるようになったのはいつからか。そう言いながら、日常的な拷問はなくなったではないかと自身を慰めるのも、またいつからか。 最近では実際の亡命ではなくサイバー亡命をしただけだと付け加える惨めな私自身を眺めている。

 本もよく読めない日々の中で、一つの記事が私の目にとまった。 去る9月に実施したある世論調査で、66%の回答者が近い将来に社会爆発が起きることを予想しているという内容の記事だった。 国民の3人に2人が蜂起のような不穏な事態を予想している国は、もちろん韓国ではなくフランスだ。 韓国ではそのような世論調査をすること自体が国家保安法に抵触する危険があるが、大革命以来20~30年の周期で革命的局面を経験した国、68年5月革命から半世紀近く比較的平穏な(?) 時間を過ごしていて、識者たちの間では「フランスが倦怠に陥った」という表現を使ったりする国だから可能なことだ。 昨年11月にも同じ世論調査があったが、その時は76%の回答者が社会爆発の可能性を占ったのに比べ、今回は10%減り、その後も今まで社会爆発が起きていないので彼らの予想がはずれたことが分かるが、今回の調査の66%の回答者も遠からず自分たちの予想がはずれたことを知るようになる可能性が高いだろう。 希望として表現されたバブルも多く含まれている数字であり世論調査だが、ここに彼らの歴史が投射されていることは誰も否定できないだろう。

 たとえば『レ・ミゼラブル』を書いた叙情詩人 ヴィクトル・ユゴーの「パリはいつも歯を見せている。どなっているか笑っているかだ」という言葉は、『異邦人』と『ペスト』の作家アルベール・カミュの「私たちは社会不正よりはいっそ無秩序を選ぶ」という、一層直接的な言葉で表現された。 最近爆発的な呼応を得ているトマ・ピケティもまた「社会的差別は公益を基礎に置く時にのみ可能だ」という、1789年の大革命当時の「人間と市民の権利の宣言」第1条を『21世紀の資本論』序章の冒頭に書いているが、これもまた彼らの歴史が反映されたものだと言える。 「社会不正よりはいっそ無秩序を選ぶ」。この命題は、人類史上の強制された秩序のうちで最も恐ろしく強固だった身分秩序を、自由、平等、友愛の理念で打倒した彼らの歴史の反映物であり、社会正義が成立している所では既存秩序に挑戦する理由が自ら消える反面、秩序を強調する社会では常に社会正義の要求が抑圧されるという論理を含んでいる。 この論理は社会正義より秩序(そして安保)理念が絶対的優位を占めている韓国の地の随所で、社会正義の要求が日常的に抑圧されていることをもっても十分に証明される。

 この世論調査にマニュエル・バルス内務長官は「解雇と工場閉鎖の波が呼び起こしうる運動と関連した社会の内破または爆発の危険がある」と答えたし、ルモンドやフィガロをはじめとするメディアは分析記事とともに知識人を招請して診断と解決法を尋ねるインタビュー記事を載せた。 私が見慣れた韓国メディアでよく目にする扇動や陰謀のような単語や社会不適応者、不平不満者のような用語は見られなかった。 それ以前に、このような世論調査を行いその結果を発表する所では、為政者がかたくなに傲慢であったり厚かましくしてはいられないと条件反射的に思ったのは、無意識に今日の韓国の現実と較べて見ていたためだ。 両国の新聞を交互に見て、社会の程度の差、その社会を構成する歴史、その歴史の反映物であり歴史の実践者である人間の程度において差異を感じざるをえないのは、新聞が社会の鏡であるためだろう。

 国民の生命と財産を保護して国民間の葛藤を調停することが国家の一義的使命と言われるが、4・16以後と以前とでは変わらなければならないという声が出てきたのは、この使命に完全に失敗した国家に対する総体的な反省とそれに伴う新たな摸索と行動が切実に要請されたためだった。 だが、朴槿恵(パク・クネ)政権はひたすら勢力関係に忠実なだけだ。 たとえば孔子は喪中の人を見ればたとえ年齢が幼くとも礼を尽くしたし、通り過ぎる際にも用心深く通ったという。 それが人間の道理であるためだ。 まして子供を失った悲痛のために4月16日以来すべての時間を奪われた両親たちを嘲弄し侮辱を与える背倫的社会像が見えないのか、国家の首長である大統領は本人に対するサイバー上の冒とくを我慢ならないと一喝し、検察は直ちにサイバーモニタリングのための対策会議を招集した。 そして、ついには検察関係者の「カカオトーク法務チームが疑いの程度を判断して集会に関連した部分だけを警察に渡した」という発言を聞くに至った。 カカオトーク法務チームが疑いの程度を判断する? 国家の公的な仕事を民間に外注する逸脱に対する問題意識さえ見られない状況だ。 絶望感に苛まれるのは、隣人の苦痛と悲しみに対する共感能力も失い、大統領から検察を経て民間事業者に至るまで人間としての自尊心も見出しがたいためだ。

 すべての社会部門で悪貨が良貨を駆逐するからだろうか、フランシスコ教皇がつかの間に見せた人間の高潔と繊細の代わりに、頭の良い者の厚かましさと、そうではない者のつまらなさばかりが見える社会。この社会はどこまで墜落するのだろうか。 ついには西北青年団を再建するという動きまで出ている。 どんな悪人でも死ぬ時には純粋になるというが、私の寡聞のせいなのか朝鮮戦争前後の虐殺を命令した者や、その命令により虐殺行為を犯した者や、また70、80、90年代に捜査機関で日常的に行われた拷問の命令者やその実行者も、彼らのうちで自身の死を目前にして懺悔の声を上げたという人を見出しがたいこの地、それどころか悔恨や省察、そしてそれにともなう涙は、専ら弱者と被害者の持分になってしまったこの地、全斗煥(チョン・ドファン)の例が示すように、犯罪者は謝罪もしていないのに先に容赦しなければならないという、そんなゆがんだ勢力関係が固着した地に、ついに西北青年団を再建する動きまで出たわけだ。 この韓国の津々浦々で無念のうちに死んだ途方もない数の人々は、不帰の人となって、その胸の内さえ語れない一方で、加害者は意気揚揚と良く食べて豊かに暮らす野蛮の地…結局、社会構成員の人性の平均値が加害者側につかつかと歩み寄っているのでないかと尋ねることになったのだ。 人間の名で省察を要求すれば、彼らが持つ力を基にした居直りの逆攻勢に立ち向かう阿修羅場に他ならないと言ったら、小心な書生の愚痴に過ぎないと言われるだろうか。

 昨今ほど自分自身に絶対命令を下さなければならない時はなかったと感じる。 冷笑や無気力症に陥るな。 上手くもない文なのに、それでも書き続けなければならないのだろうか? ルモンドとのインタビューで、最後まで民主主義に寄り添うほかはないと強調したトマ・ピケティはこのように言った。 「私は私たちを統治する者のために本を書きはしない。 どうせ彼らは本を読まない。 私は本を読む人々のために本を書く。 市民、労働組合員、すべての指向の政治活動家のために書く。」

https://www.hani.co.kr/arti/opinion/column/659073.html 韓国語原文入力:2014/10/09 20:45
訳J.S(3508字)

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