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[朴露子ハンギョレブログより] 暗黙的共犯?

登録:2013-01-13 19:57 修正:2013-01-13 21:59
朴露子(パク・ノジャ、Vladimir Tikhonov) ノルウェー、オスロ国立大教授

 私は個人的にソルジェニーツィンという作家はあまり好きではありません。『イワン・デニソヴィチの一日』(1959)などといった初期の小説には新鮮な衝撃を受けたものの、特に『収容所群島』(1973)は「スターリン主義」と「社会主義」を混同させることにより率先して世界を誤導しました。スターリンに容赦なく銃殺されたり強制労働刑に処せられた人々の多くは、即ち(真の)共産主義者たちだったにもかかわらず、ソルジェニーツィンはスターリンを「革命の化身」のように叙述するなど、西側の保守的「主流」の望みどおりの「証言」を提供しました。収容所の飯を食べたことのないいかなる西側の左派知識人も囚人出身のソルジェニーツィンに立ち向かって反発する道徳的な名分がなかったため、ある意味では保守主義者たちに無敵のカードを与えたようなものです。『収容所群島』には事実誤認などが多すぎて歴史の教材には不向きですが、最近その一部がロシアの国定教科書に載せられているのもまさに同様の理由、つまり反共主義的な洗脳効果のためです。

 ところが『収容所群島』のある一節は私にひらめきを与えてくれました。1937年の大粛清を述べながらソルジェニーツィンは当時の常識に面白く挑みます。ソルジェニーツィンが問うには、武器を扱える多くの職業軍人たちを含む大粛清の犠牲者たちは、スターリン政権の凶暴さにとっくに気付いていながら、一体何故その逮捕に対して物理的に抵抗しなかったのかということです。どうせ拷問室か処刑場に直行する、最早救済されることのない境遇であるにもかかわらず、逮捕が予想される仲間たちの家で何人かが一緒に待ち伏せし、秘密警察が現われたら重いシャベルやつるはし、斧などででも彼らを制圧し、秘密警察の横行に立ち向かっていたならば、結局はこのような抵抗が広がり内戦の再発を恐れた秘密警察も少しは「大人しくなる」効果があったのではないかということがソルジェニーツィンの問いでした。もちろんこれは自分自身に対する反省かもしれません。1945年、若き将校だったソルジェニーツィンが反スターリン主義的な発言が災いして捕まった時、彼には「重たいシャベル」程度ではなく火器さえも持ち合わせていたのです。それにもかかわらず、彼も大粛清の犠牲者たちの絶対多数も何の抵抗もしなかったわけです。他人と連帯して抵抗することなど夢にも思いませんでした。各個躍進、つまり各自が自らの生存のみに気を取られ、一旦原子化された人々に対する生殺与奪権を持つ全知全能な近代的「超国家」の存在に向かって、いかなる根本的な問いも投げかけることはできませんでした。革命の熱気が既に冷めてしまった、保守化され原子化された社会はあまりにも簡単に国家に捕獲されやすく、あまりにも簡単に大粛清の犠牲になりました。

 もし捕まっても「人民の敵」の名前を二つか三つばらせば自分は無事でいられると、他人は死んでも自分は大丈夫だろうと固く信じた1937年のソ連の知識人たち……。彼らは結局犠牲者でありながらも、本人は望まなかったとしても国家の暴力に「共犯」役をしたことになります。さて、果して今日のような開明の天地である大韓民国に生きる人々は彼らとどれほど異なるでしょうか?正社員10名採用の案内が出るだけで、千人以上の志願者が集まる、構造的に大規模「余剰労働力」を胚胎せざるをえないこの社会では、今大学で勉強する学生の70~80%は未来の非正規労働者になるでしょう。そして時間が経てば経つほど、その可能性は遥かに濃厚になるでしょう。恐慌が深まる一方で、輸出主導・財閥優先の経済の新規職場創出能力が次第に低下するからです。どのみちすべてを奪われた者たちの列に合流するしかない彼らは、もし他の仲間たちと一緒に共存共生を図ろうとすれば、今すぐにでも現代車非正規労働活動家たちが篭城する所に駆け付け連帯デモを起こさなければなりません。不法派遣と正社員転換に関する裁判所の決定まで無視する企業主の横暴は彼ら自身にも結局は現実になるからです。しかし、果してこうして駆け付けていく人々は多いでしょうか? 絶対多数の考え方は1937年のモスクワの知識人たちとまったく同じです。「まさか自分じゃないだろう。自分はそれでも生き残るだろう? 他人は死んでも自分は生き残るだろう? 人がひどい目に会うのはそれなりの理由があるからであって、自分にはそんな理由などないから、万事うまくいくだろう?」皆が死んでいく中で自分一人が生き残れることを敢えて信じなくても、全知全能な市場の非正規労働者量産に抵抗するには、市場の全知全能さを最早大人しく受け入れすぎているということです。1937年のモスクワの市民たちに「スターリンは革命を遮断し反動化させた悪質独裁者」という考えがあまりにも不自然だったように、私たちには「市場、すなわち極少数の企業主たちが多数の無気力さを利用して単純な掠奪行為をしている」という考えは不自然です。果して後世の人々は私たちのことをどう評価するでしょうか?

 私たちが気付かないだけですが、本当は「無力な小市民」であっても重たいシャベルとつるはし、斧以外にも自分の反抗意志を表明する方法は非常にたくさんあります。ただし、強力な意志と状況に対する正確な把握、そして他人と連帯する集団行為の習慣などが必要なのです。たとえば、命を掛けた高空篭城闘争を見守りながら、最後まで不法雇用されたすべての非正規労働者たちの正社員転換を悪質的に拒否する現代車が作る自動車を買わなければいいのです。ストライキのほかには不売運動が資本主義の所得を減らす上で非常に強力な効力を持つ説得手段です。車を買うことのない人なら? 現代車の広告の載る新聞をボイコットする方法、特に現代車販売の多い地域のメディアに現代車の実態を知らせる手紙などを送り、現代車を買わないようにと、良心的なすべての世界の人々に訴える方法などがあります。重要なのは方法ではなく、他人と手を握り既に今ここで「私」より先に社会的に他殺されている人々を助けようとする意志なのです。ところが、大韓民国の「無限競争」中心の教育制度などは、このような意志の種子を幼稚園の時から乾されてしまうため、結局自分が自分の生存のみを図ろうとする今のような世の中になってしまいました。

 敢えて暴力を伴わない、それでも極めて強力な闘争方法は実はたくさんあります。たとえば、どうせ除隊しても絶対多数は非正規労働者になる入隊予定者である男性たちが数百人、数千人単位で入隊と軍服務を拒否し、「私たちを非正規労働者にする国家を守る義務はない!!!!」と叫んだら果してどうなるでしょうか? 弾除けならそれでも必要だという支配者たちは、非正規雇用の事由制限を設ける方法などを考えるきっかけにでもなりはしないでしょうか。そして万が一、このような集団行動を取る人々の数が数万人にも上ったら、果して国家が多数の常識に逆ってまで彼らを皆「前科者」にすることができるでしょうか。連帯は本当に核心です。連帯をうまくやっていく民衆は、敢えて暴力的な方法に訴えなくてもいくらでも勝つことができます。ところが、ひとりひとりが「成績競争」に慣れてしまった私たちは、あまりにも連帯が下手になりました。だから労働者たちが次々と死んで行くというのに、私たちは皆「暗黙的共犯」になっているわけです。オスロであのクソ現代車の販売台数を一台たりとも減らせなかった私をも含めての話です。死を覚悟した篭城を見守りながら、私たち皆は一体何をすればよいでしょうか。

http://blog.hani.co.kr/gategateparagate/54508 韓国語原文入力:2013/01/10 22:23
訳J.S(3212字)

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