「国家間の危機管理のためには政府間の外交が必要です。しかし、それで終わりではありません。国家を構成するのは民族であり、人間であり、国民です。だから民間の交流が本当に重要です」
25日、東京千代田区のホテルニューオータニで「第7回韓日フォーラム賞」受賞のために演壇に上がった小和田恒元国際司法裁判所(ICJ)所長(89)は、感慨無量といった面持ちでそっと微笑んでみせた。韓日フォーラムの日本側の初代議長でもある同氏は、自身と韓国の縁、日本軍「慰安婦」問題を扱った際に痛感した民間交流の重要性、両国関係回復の必要性などを受賞演説で語った。
同氏の韓国との縁は、韓日両国が国交を正常化した1960年代半ばにまでさかのぼる。同氏は1955年に大学を卒業し外務省に入省。主に条約に関する業務を担当した。そして1965年6月に調印された韓日基本条約の文書作成にかかわることになる。
韓国との関係が「決定的」に深まるきっかけとなったのは、1991年8月に外務省の「ナンバー2」である事務次官に任命された直後に浮上した「慰安婦」問題だった。自身の受けた被害を自ら明らかにした金学順(キム・ハクスン)さんの「歴史的証言」によって、それまで水面下に沈んでいた慰安婦問題が歴史の表舞台に浮上したのだ。この問題をどのように処理するかをめぐって、日本政府は非常に困難な立場に追い込まれた。同氏は「慰安婦問題をどのように処理するかが、次官だった私の業務の大半だった」と語った。当初、日本の外務省は「慰安婦問題は1965年の国交正常化の過程で締結された請求権協定で法的処理済み」だとの原則を固守していた。「国際法の専門家」である小和田元所長の見解も同じだった。しかし、果たしてそうだろうか。同氏の心は揺れ動いた。
「法的にはそうだとしても、人間としてそれで良いのでしょうか。法的に整理された問題だからといって、人間と民族の関係はそんな風に(簡単に)整理されません。だから日本が誠意をもって対応することが重要だと思ったのです。日本の外務省もそのような方針を決めることになります」
小和田元所長は、韓国との関係を重視した宮澤喜一(1919~2007)首相にもそのような趣旨の報告をした。「宮沢首相も私の話を反論せずにずっと聞いていらして、『その通りだ。そのような方向で問題を解決していこう』とおっしゃいました。こうして日本政府の方針が決まったのです」
その後、宮澤内閣は「慰安婦」動員過程の強制性と日本政府の関与を認めた「河野談話」(1993年)を発表することになる。さらに日本政府は、村山富市内閣時代の1995年7月、日本の市民の義援金を集め、被害者に「償い金」を支給する「アジア女性基金」という解決策を提示した。しかし、明確な法的責任を要求する韓国社会の反発に阻まれ、日本政府が期待していた「完全な解決」には至らない。
「慰安婦」問題を扱う際に小和田元所長が痛感したのは、民間外交の重要性だった。外交は国の役割も重要だが、韓日が和解し、理解の幅を広げていくために必要なのは、民間の持続的な交流だと感じたからだ。事務次官の退任を前に、当時のオ・ジェヒ駐日韓国大使と、2つの社会が交流する民間プラットフォームを作ることを提案する。この提案が実を結び、1993年11月に金泳三(キム・ヨンサム)大統領と細川護熙首相が慶州で会い、両国の持続的な民間交流のために幅広い対話を続けていくことで合意する。それから30年間、一度も絶えることなく続いてきた韓日フォーラムが誕生した瞬間だった。フォーラムはこれまで2002年韓日W杯共催、金浦(キンポ)-羽田直行路線の新設など、両国関係を改善し交流を深める様々な提言を行ってきた。24日から3年ぶりに東京で「対面」で開催された第30回フォーラムの2日目には林芳正外相が出席し、祝辞を述べた。林外相はこのフォーラムに16回も参加している「常連メンバー」だ。
小和田元所長は、現在「史上最悪の状態」と言われる韓日関係についても楽観的な見解を示した。「関係は厳しいですが、十分克服できます。現在の両国間の問題を単に分析するだけでは意味がありません。それは学者たちがやれば良いことです。両国間の肯定的な要素を見つけ出して実現しなければなりません。この集まりに政府関係者の代わりに政治家、ジャーナリスト、学者、元官僚を入れたのはそのためです。意見を結集して具体的な行動に起こさなければなりません」。小和田元所長は徳仁天皇の妻・雅子皇后の父親だ。