本文に移動

[インタビュー]「残りの人生も『朝鮮人戦犯』問題を記録し、記憶する」

登録:2022-06-09 09:19 修正:2022-06-09 09:45
「後広学術賞」受賞の内海愛子恵泉女学園大学名誉教授
金大中元大統領の精神を称える第15回「後広学術賞」の受賞が決まった内海愛子・恵泉女学園大学名誉教授(81)=東京/キム・ソヨン特派員

 「私は自分のことを学者だと思ったことはありません。このような賞をいただくことになるなんて、嬉しくもあり、戸惑ってもいます。日本の戦後補償運動に取り組んできた多くの日本の市民のための賞だと思います」

 金大中(キム・デジュン)元大統領の精神を称える第15回「後広学術賞」の受賞が決まった内海愛子(81)恵泉女学園大学名誉教授は5日、東京で本紙の取材に応じ、明るく笑いながら受賞の感想を語った。後広学術賞選定委員会は8日、「内海先生はこれまでに30冊あまりの本を執筆し、日本のアジア太平洋戦争の侵略的性格を究明して、戦後処理の二重性を暴露することに寄与した。また日本政府の謝罪・補償を求める運動や平和運動などにも積極的に参加してきた」と授賞理由を明らかにした。

 朝鮮人BC級戦犯問題の権威である内海教授は、日本が戦争で敗れた1945年8月以降「戦争犯罪者」の烙印を押され韓日双方から無視されてきた人々の人生を執拗に追跡し、光を当ててきた。東南アジア研究者である夫の村井吉敬さん(1943~2013)と共に訪問したインドネシアで、1975年に朝鮮人の梁川七星(梁七星、ヤン・チルソン)の存在に初めて出会ったことが、内海教授とBC級戦犯問題の縁のはじまりだった。内海教授はその後、梁七星を初めて紹介した『赤道下の朝鮮人叛乱』(1980)に続き、『朝鮮人BC級戦犯の記録』(1982)、『キムはなぜ裁かれたのか―朝鮮人BC級戦犯の軌跡』(2008)など多数の本を執筆した。

 内海教授の活動が韓日両国の市民社会に大きな影響を及ぼし得たのは、BC級戦犯についての学術研究にとどまらず、彼らの名誉回復と補償のために長きにわたって闘ってきたからだ。内海教授は「研究と運動を切り離して考えたことはない」、「私は部屋に閉じこもって研究ばかりするスタイルではなかったと思う」と言って笑った。闘うためには資料を読んで根拠を見出さなければならず、そのように歴史の真実に迫ればいっそう熱心に闘わざるを得なかった。「私は金大中元大統領が自ら示してくれた『行動する良心』という言葉が好きです」

 内海教授は梁七星との出会いを運命だと表現した。「ある意味、運命かもしれませんね。在日問題に興味があったので韓国に留学したかったんですが、様々な事情で諦めました。奨学金をもらった夫と一緒にインドネシアに留学することになりました」。そんな中、インドネシア独立戦争の英雄の中に朝鮮人がいることを知った。全羅北道完州郡参礼(ワンジュグン・サムネ)出身の梁七星は、なぜインドネシア独立のために戦い、オランダ軍に捕まり銃殺(1948年8月)されなければならなかったのか。

 彼の人生を追う過程で向き合うことになったのは、朝鮮人BC級戦犯たちの悲しい物語だった。日本は1941年12月、太平洋戦争を起こして東南アジアに侵攻した。その過程で30万人にのぼる連合軍捕虜を抱えることになる。彼らを管理するために朝鮮で3000人あまりの捕虜監視員を募集した。タイ、シンガポール、インドネシアなどに配された捕虜監視員たちは、劣悪な施設に収容された連合軍捕虜たちと大小の摩擦を引き起こさざるを得なかった。その過程での捕虜虐待などで、死刑になった14人を含め、129人が有罪判決を受けた。このように、通常の戦争犯罪(B級戦犯)と人道に反する罪(C級戦犯)を犯した人々を、戦争を起こした平和に反する罪(A級戦犯)を犯した人々と区別するため、BC級戦犯と呼ぶ。

左が1949年8月10日にオランダ軍に銃殺される直前の梁七星。中央は1975年に西部ジャワの英雄墓地に移葬される梁と2人の日本人の遺骨。右はヒラハラモリツネという日本名を持つ朝鮮人死刑囚。右端にチョ・ムンサンという本名が英語で表記されている=歴史批評社提供//ハンギョレ新聞社

 内海教授は朝鮮人BC級戦犯問題を扱う際、彼らはいずれにせよ戦争犯罪者だという容易ならざる問題に直面しなければならなかった。「私は、彼らが有罪なのか無罪なのかでアプローチしませんでした。肝心なのは、なぜ彼らは戦争責任を押し付けられたのかを考えることだと思います」。内海教授は、日本が戦争を遂行する過程で発生した様々な複雑な問題の責任を朝鮮人に転嫁したと考える。さらに日本は1952年4月、彼らの日本国籍を最終的に剥奪し、旧日本軍の軍人と軍属に支給される年金である「恩給」などの支給対象から除外した。日本の命令によって戦争の第一線で様々な苦しみを味わい、その後も戦犯という烙印を押された人々を放り出したのだ。内海教授は「日本は自分たちの代わりに朝鮮人を戦犯にしておきながら、戦争が終わった後は何の責任も取らずに捨てた」と強調した。

 内海教授は日本の市民団体「強制動員真相究明ネットワーク」でも活動しており、韓国の強制動員被害者問題にも積極的に取り組んでいる。2018年10月の最高裁判決で確定した賠償金の「現金化」問題は現在、韓日関係の最重要懸案として浮上している。内海教授は、韓国の被害者と日本企業との和解が必要だと力説した。

 「戦犯企業である西松建設の和解(2009年10月)の例などがあるわけでしょう。中国の強制動員の被害者に謝罪と補償を行い、後の世代の教育のために慰霊碑も建てています。先例があるんですから、韓国との間でもこのようなやり方が必要だと思います」。内海教授は「戦後補償問題をきちんと解決することは、韓国だけでなく日本のためにも大切だ」と語る。このような観点から「いま議論されている『代位弁済』(韓国政府が被害者に賠償を行い、日本に対する求償権を持つこと)方式は適切ではない」と付け加えた。

 内海教授は今後「朝鮮人戦犯の証言、経歴、裁判記録を1人ずつ整理」する計画だ。東京の「巣鴨プリズン」に拘禁されていた朝鮮人BC級戦犯たちが「同進会」を作り、日本政府と闘ってきた過程の記録を残すことも目標だ。つまるところ、内海教授が強調したのは「記憶と記録」だった。「朝鮮人BC級戦犯など、日本の近現代史には複雑な問題がたくさんあります。当時なにがあったのかをきちんと知るためには、記憶を記録によって検証し、記録を記憶で確認する作業が絶対に必要です」。そう語る80代の重鎮研究者の目は輝いていた。

東京/キム・ソヨン特派員 (お問い合わせ japan@hani.co.kr )

関連記事