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松代大本営の秘密工事に動員された数千人の朝鮮人はどこにいるだろうか

登録:2019-08-12 07:55 修正:2019-08-12 10:09
松代大本営の朝鮮人強制動員の現場 
 
本土決戦のための無謀な工事に 
朝鮮人6000人が動員され 
死者数百人以上と推定される 
名前が確認された犠牲者は4人だけ 
火葬場で見たという証言はあるが 
どこに埋められたかは分からず 
朝鮮人女性を動員した慰安所も存在 
「強制動員ではない、賃金も支給した、と話す若者が増えている」
今月9日、長野県長野市松代象山地下壕の中で、地域の歴史研究家の原昭己さんがトンネルと地上を繋ぐ部分について説明している。遠くに光が見える部分が地上連結部分だ=チョ・ギウォン特派員//ハンギョレ新聞社

 「朝鮮人労働者たちが1日2交代で12時間ずつ働いた。わずか9カ月で計13キロメートルの地下通路を掘ったが、普通のトンネル工事なら何年かかっても難しいことだった」

 9日、日本長野県長野市松代大本営地下壕の一部である象山地下壕の前で、この地域の歴史研究家の原昭己さんが訪れた人たちにこの工事がどれだけ過酷な工事だったのかを説明した。地域歴史研究家の彼は、敗戦前に日本軍の代表的な無謀な強制動員事例に挙げられる松代大本営施設の案内も務めている。

 象山地下壕の隣には、日本市民が建てた「もう一つの歴史館・松代」という展示館がある。ここに展示されたものを見ると、当時の残酷な労働環境がうかがえる。ダイナマイトの爆発後に出た石のかけらを担いで運んだ背負子が代表的な事例だ。石の重さまで合わせると、60~80キログラムに達した。象山地下壕には漢字で「大邱(テグ)」、「密城(ミルソン)」(密陽と推定される)と書かれた文字もある。実際に書かれている場所は、今は非公開の区間だ。写真だけが公開区間に展示されている。強制動員された朝鮮人たちはそれほど故郷を恋しく思っていたのだろう。

 日本は敗戦を控えた1944年11月、東京から200キロメートル以上離れた山岳地域の松代に戦時最高統帥機関の大本営を移すため、地下バンカーを作る工事を始めた。いわゆる「本土決戦」備えるため、東京の「宮城」(現在の皇居)にあった大本営を地下豪に移す計画だった。日本屈指の総合建設会社である西松組(現在西松建設)と鹿島組(現在鹿島建設)が工事を請け負った。工事に朝鮮人6千人と日本人3千人が動員されたと推定されるが、正確な資料はない。日本軍が敗戦後に資料の大半を廃棄してしまったからだ。一般に公開されている区間は、象山地下壕区間の一部(約500メートル)だけだ。今は1年間で5万人が訪れる観光名所となった。地下壕工事は75%程度まで進められたが、8月15日の降伏とともに中止された。

 韓国からの被害の届け出は微々たるものだった。工事開始当時、日本軍作業責任者さえ何のための工事なのかを知らなかったほどで、動員された朝鮮人労働者が被害事実を正確に申告するのは困難だっただろう。「対日抗争期強制動員被害調査および国外強制動員犠牲者など支援委員会」が発行した資料によると、2011年の時点で把握された被害者はわずか18人だ。

 工事はダイナマイトで爆破した後、削岩機で岩を砕き、トンネル工事などに使われる「鉱車」で運ぶ方式で行われた。ダイナマイトで爆破する際、反対側で作業をしていた労働者が石に当たって死亡する場合も多かった。ダイナマイト技術者として働き、1991年まで松代に住んで、当時の惨状を証言した故チェ・ソアム氏は「坑内で発破を間違えて同僚4人の体が吹き飛んだ。人の首が天井の板の間に挟まっているのも見た」と語った。彼は「犠牲者が多い日は1日で5~6人が死んだ」という証言も残した。

 死者の数は推定に過ぎない。朝鮮人犠牲者は220人から多くは650人以上と差が大きい。

今月9日、長野県長野市松代象山地下壕の中で、地域の歴史研究家の原昭己さんが松代大本営地下壕について市民たちに説明している=チョ・ギウォン特派員//ハンギョレ新聞社

 朝鮮人死亡者が白骨でも故郷に帰ったケースもあまりない。象山地下壕近くにある恵明寺には中野次郎と“創氏改名”された朝鮮人犠牲者を追悼する碑石が立っている。この寺の住職の中西智教さんは「朝鮮名はわからない。西松建設会社の職員が遺骨を持って来て預けたと聞いた」と話した。遺骨は2005年忠清南道の「望郷の丘」に改葬された。人的事項が一部ながら確認された朝鮮人死亡者は4人だけだ。残りの犠牲者の遺骨は今どこにあるのかさえ分からない。「朝鮮人死亡者の死者を荷車で運ぶのを見た」という証言などが残っているだけだ。

 象山地下壕で原さんが指先で一点輝く部分を指した。光が見える地上には強制動員された朝鮮人を収容した「飯場」(建設労働者が泊まった簡易宿泊所)があった。今はなくなった飯場で、朝鮮人労働者が列をなして移動し、12時間も地下壕で労働している場面が浮かび上がってきた。同日、象山地下壕を見学したヒラマツ・カズコさん(68)は「自分たち(戦争指導部)を守るための工事だったはずだ。このような工事に朝鮮人が苦労したと思うと、申し訳ない気持ちで一杯だ。戦争は決してあってはならない」と語った。

 松代大本営の悲しい歴史は、同地域の平凡な日本市民が守ってきた。1995年、日本市民たちは象山地下壕の入口に「朝鮮人犠牲者追悼平和記念碑」を建てて証言を集めてきた。しかし、ここも“歴史修正主義”の波から逃れられなかった。長野市は2014年、「住民と朝鮮人らが強制的に動員され」と書かれていた大本営地下壕の案内文のうち、「強制的に」という文言にテープを貼って隠した。

 市民団体が批判すると、その後長野市は新しい案内文を貼った。「必ずしも全員が強制的ではなかったなど、様々な見解がある」という表現に変えた。朝鮮人強制動員が形式的に「募集」や「官斡旋」、「徴用」に分かれて行われており、松代大本営に様々な形で日本に来た朝鮮人たちが混在したという点を利用し、強制労働を否定しようとしているのだ。しかし、募集と官斡旋の場合も、実際には拉致に等しい方法で連行したケースが多かった。動員後は逃走しないよう日本の官憲と会社が継続監視し、賃金のうちかなりの金額が貯蓄の名目で支給されなかった。

 昨年には松代大本営工事に強制動員されたものと見られる朝鮮人と家族2600人の名前が書かれた名簿が発見された。原さんは「名簿は『もうひとつの歴史館・松代』と日本国会図書館などに申請すれば閲覧できる」とし、「最近日本の若者の間で強制労働ではなかったと話す人が増えている。彼らには国家の暴力性について改めて考えることを勧める」と話した。

長野/チョ・ギウォン特派員(お問い合わせ japan@hani.co.kr)
https://www.hani.co.kr/arti/international/japan/905369.html韓国語原文入力:2019-08-12 05:00
訳H.J

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