本文に移動

[インタビュー]「反国家団体の汚名返上し、笑顔で韓国に行きたい」

登録:2018-12-14 06:25 修正:2018-12-14 16:53
孫亨根在日韓国民主統一連合議長 

一途に韓国の民主化・統一運動続けてきた韓統連 
朴正煕政権時代に「反国家団体」のレッテル張られ 
盧武鉉政権時代、政治的に復権されたが 
李明博政権時代に再び弾圧の対象に 
 
主要幹部のパスポート期限を大幅に縮小 
議長には最初から発給せず 
文在寅政権発足後も改善されておらず 
現地の領事ら、依然として「色分け論」で判断

先月22日午後、日本東京の韓統連中央本部事務室で孫亨根議長(左から2番目)と朴南仁副議長(左から3番目)、朴明哲組織局長(右端)、金知栄民主女性会会長(左端)がインタビューを終えた後、韓統連旗を背景に並んで立っている=東京/キム・ジョンチョル先任記者//ハンギョレ新聞社

 民主化が実現した後、過去の独裁政権時代に逼迫と迫害を受けた多くの人が、法律を通じて時には社会的に労苦を称えられ、補償を受ける場合もあった。まともな国家と社会共同体なら、苦労した人々と被害者たちを労うと共に、補償または賠償を行なうのが当然だ。しかし、長年の民主化活動にもかかわらず、補償を受けたり称えられるどころか、国民の基本権も保障されない人たちがいる。約40年間にわたり、日本で韓国の民主化運動を行ってきた韓統連(在日韓国民主統一連合)の会員たちだ。盧武鉉(ノ・ムヒョン)政権時代、一時的ながら政治的に復権されたが、その後再びパスポート発給の排除と差別などの冷遇を受けている。40年前の1978年、韓統連に烙印を押した国家保安法の反国家団体規定がいまだにその口実となっている。このような冷遇は、文在寅(ムン・ジェイン)政権発足後も続いている。ハンギョレ土曜版は国家保安法の制定・公布(1948年12月1日)から70年を迎え、韓統連の苦難を2回にわたって連載する。第1回は孫亨根(ソン・ヒョングン)韓統連議長のインタビューを掲載する。インタビューは先月22日午後、東京の中心地代田区にある韓統連事務室で行われた。

 「まず、これを見てください。韓国政府がいまだに韓統連をこのように扱っています」

 インタビューのため、席に着くや否や、在日韓国民主統一連合の孫亨根議長(67、以下呼称省略)は、「身元確認書」の書類2枚を机の上に並べた。在日韓国人らがパスポートを申請する際、駐日韓国領事館に提出する書類だ。住所や家族関係、職業、学歴など、主要情報を記録しなければならない。その中には「朝鮮総連または韓統連の経歴」を書くことも義務付けられている。日本で長い間、韓国の民主化と統一運動のために活動してきた韓統連を、北朝鮮と直接連係のある総連同様に扱っていることを示している。

 -今でもこの書類が使われているのか?

 「東京はそうでもないが、大阪や神戸など他の地方では今も使われている。正直に韓統連の経歴を書けば、場合によって(有効期限)1年あるいは3年のパスポートが発給される。書かなければ、どこから情報を仕入れたのか、国家情報院(国情院)が『正直に書かなかった』として旅券の有効期間を縮小する」

 -今年5月にもパスポートの発給を拒否された。

 通常はパスポートを申請すれば、10年期限のものを取得できるが、東京本部の朴南仁(パク・ナムイン副議長)の場合は1年、金知栄(キム・ジヨン在日韓国民主女性会会長)の場合は3年だ。韓統連大阪本部の金隆司(キム・ユンサ代表)のパスポートも期限が1年だ。韓統連の代表者である孫亨根はパスポートそのものを持っていない。今年5月に駐日韓国大使館領事部に申請したが、1カ月後にパスポートを発給できないという通知を受けた。その代わり「国情院に調査を受けに行くなら、臨時パスポートは発給できる」と言われた。盧武鉉政権時代にはなかった「韓統連関係者に対するパスポート差別」は、李明博(イ・ミョンバク)政権時代に始まった。朴槿恵(パク・クネ)政権を経て文在寅(ムン・ジェイン)政権が発足してからも、差別の慣行は続いている。匿名希望のある外交官は「海外におけるパスポート発給の権限は、外交部職員ではなく、国情院職員の現地領事が持っている。政権が代わっても、国情院の慣行はまだ全く変わっていないことを示している」と話した。

 孫亨根は、李明博政権時代の2011年5月、特別な理由もなくパスポートの更新を拒否された。これに反発し、当時の外交通商部を相手に「パスポート発給拒否処分の取り消し」を求める行政訴訟を提起したが、政府は2011年8月、「国家保安法上起訴中止中の人」との理由で、再びパスポートの発給を拒否した。ソウル行政裁判所(ソ・テファン裁判長)は同年2011月、結局原告敗訴判決を下した。これに対し、孫亨根は憲法裁判所に憲法訴訟を起こしたが、却下され、本案に対する判断を受けることすらできなかった。

 韓統連に対する弾圧の兆しは、それより2年前に現れた。李明博政権2年目だった2009年4月、4・19記念行事に参加するため仁川(インチョン)空港に到着した彼の前に、国情院の職員が立ちはだかった。国情院は彼を押収捜索した後、いくつかの調査を行った後、翌日「取り調べを受けに出頭せよ」という召喚状を突き付けた。彼はこれを拒否し、翌日出国して、日本に戻った。これを口実に、検察(国情院)は2年後、彼を起訴中止した。しかし、彼は盧武鉉政権時代の2003年9月、初めてソウルを訪れてから、約5年間で14回も祖国を行き来した。

 -前政権(盧武鉉政権)時代には何も問題視しなかったが、李明博政権時代に突然入国を阻止した理由は何か?

 「あの時、空港で3時間にわたり調査を受けたが、北朝鮮に行って何をしたのか、北朝鮮と何の関係があるのかと訊かれた」

 彼が韓統連幹部として行事のために北朝鮮へ行ったことを、国情院は後になって問題視した。孫亨根は1996年8月の「第7回汎民族大会」(平壌)や2001年8月の「民族統一大祝典」(平壌)、2008年6月の「6・15宣言8周年記念民族統一大会」(金剛山)に出席するため、北朝鮮を訪問した。公式的かつ公開的な訪問だった。3つの行事いずれも、南北と国外の民間団体が共同で推進した民族統一運動の一環だった。韓統連はこのような民族共同行事の主軸を担ってきた。国内団体や関係者らが韓国政府による承認拒否で訪朝できない時、外国にいる韓統連が南北団体を連結して疎通する役割を果たしてきた。

 -平壌訪問はいずれも公開行事であり、その後も韓国にも来たのに、なぜ問題にしたのか?

 「国情院が執拗に聞いたのは、1996年の訪朝時に北側の板門店で行われた集会などだった。金日成(キム・イルソン)主席が書いた碑石の前で集会が開かれたが、私たちは案内員に連れられて、訪れた者の礼儀として参加しただけだ。特別なものでもなかった。それが国家保安法違反というのだ。それは口実にすぎず、実際は政権発足直後、狂牛病(BSE=牛海綿状脳症)ろうそく集会で、1年間守勢に立たされていた李明博政権が、2009年に入って公安統治を始め、韓統連をターゲットにしたようだ。再び北朝鮮と対決政策を取り始めた李明博政権にとって、南北和解を主張する勢力が障害になると考えたようだ。また、韓統連がそのような政府を国外で反対し続けるだろうと見て、再び入国できないようにするため、問題視したのではないかと思う」

日本で長く韓国の民主化と統一のための活動を続けてきた在日韓国民主統一連合の孫亨根議長が先月22日、東京韓統連本部事務室でハンギョレとインタビューを行っている=東京/キム・ジョンチョル先任記者//ハンギョレ新聞社

「韓統連に背を向けた金大中には寂しい気持ちも」

 韓統連の会員らは朴正煕政権以来、長い間入国が全面禁止された。朴正煕政権が1977年に在日同胞留学生の金整司(キム・ジョンサ)スパイ事件をでっち上げた際、最高裁判所(大法院)が韓民統(在日韓国民主回復統一促進国民会議・韓統連の前身)を反国家団体と規定(1978年)したことが、韓統連にとって最大の足かせとなった。当時、ソウル大学社会系列に入学したばかりの金整司(63)は、彼が尊敬していた金芝河(キム・ジハ)詩人の法廷闘争記などを同じ留学生の柳成三(ユ・ソンサム)に貸して、保安司(軍事安保支援司令部の前身)に捕まった。保安司は金整司が日本のある講演会で会った「在日韓国青年同盟」(韓青)の幹部イム・ゲソンをスパイの黒幕に仕立て上げ、イム・ゲソンの後ろには韓民統の中心人物である郭東儀(クァク・ドンウィ)がいるというシナリオを作り上げた。金整司と何の関係もなかった韓民統は、突然北朝鮮の指令を受ける反国家団体となった。その後、裁判所は自動的に「韓民統(韓統連)=反国家団体」と規定した。

 当時、韓民統に張られたレッテルは、1980年当時野党の指導者だった金大中(キム・デジュン)を死刑囚にすることに活用された。5・17クーデターで権力を握った全斗煥(チョン・ドゥファン)一派が内乱陰謀事件をでっち上げ、金大中に死刑を言い渡した際、理由として挙げたのが、まさに「反国家団体の韓民統の首魁」という容疑だった。金大中は2004年、再審で無罪判決を受けた。

 大統領になった金大中は理念論争に巻き込まれることを恐れてか、執権5年の間、韓統連(1989年、韓民統から名前を変更)に背を向け続けた。「金大中が保守勢力の顔色をうかがわざるを得ない事情を、私たちも十分わかっていた。でも、それを知らない日本人たちは『孫さん、韓統連があんなに金大中さんのために様々な活動をしたのに、招待もないんですか?名誉回復もないんですか?ひどいです』とずいぶん驚いていた。それが残念で、つらかった」と、孫亨根は語った。

 韓統連の入国が全面許可されたのは、盧武鉉政権が発足してからだった。金大中は退任後の2004年、ようやく郭東儀ら韓統連関係者と東橋洞(トンギョドン)の自宅で31年ぶりに会った。1970年代初めの講演会で、遠くから見た金大中と孫亨根は、その時初めて対面した。

 -盧武鉉政権時代、入国が全面的に可能になった時は、名誉が回復されたと思っただろう。

在日韓国人らがパスポートを申請する際、領事館に提出する身元確認書。韓統連を朝鮮総連同様に扱っている//ハンギョレ新聞社

 「そうだ。盧武鉉政権が2003年秋、韓統連会員にパスポートを発給したことで、事実上韓統連の名誉が回復されたと思っていた。真実和解委員会(真和委)で公式に名誉回復されることだけが残っていた。真和委に韓統連の汚名を晴らしてほしいと求め、真和委でも調査に熱心だった。私も数回、ソウルに行って証言した。良い結果が出ると期待していたが、2007年12月の大統領選挙で李明博候補が当選してから、すべてがだめになった。真和委員に保守性向の人物が多くなり、結局、真和委は『不当な公権力の行使によって発生した重大な人権侵害事件ではない』として、韓統連の反国家団体規定事件を棄却した。それでもパスポートは民主化運動の成果として発給されたものであるため、まさか剥奪されるとは思わなかった」

 -金整司氏が2011年の再審で無罪判決を受けた。ならば、黒幕とされた韓統連を反国家団体と見た判断は無効原因になると思うが、なぜ法的な名誉回復ができないのか?

 「無効原因になるのが当然だ。そのうえ、金整司氏の再審ではなくとも、韓統連を『反国家団体』と規定した根拠自体がすでに崩れた。つまり、最高裁が1978年に韓統連を反国家団体と判示する際に挙げた根拠の一つが、郭東儀先生が訪朝して北朝鮮の指令を受けたという主張だが、彼が訪朝したとされる期間に東京にいたというアリバイが書類(韓民統会議録)を通じて確認された。しかし、法では反国家団体というレッテルを剥がすことはほとんど不可能だ。韓統連が直接捜査を受けたり、被疑者になったことがないため、私たちは裁判所に再審を申請できないからだ。かといって、最高裁が判断を誤ったとして、自ら判決を変えるとは思えない」

反国家団体の根拠となったスパイ事件の主人公  
当局の“捏造”が確認され再審で無罪  
無効原因にもかかわらず、いまだ韓統連には赤いレッテルが 
 
「大韓民国の立場で統一運動」は  
韓統連設立後の一貫した原則  

韓統連の孫亨根議長(右)と金知栄在日韓国民主女性会会長が先月22日、東京韓統連本部の事務室で、それぞれの団体が発刊する「民族時報」と「民主女性」を指差している=東京/キム・ジョンチョル記者//ハンギョレ新聞社

来年三・一節の帰国がバロメーター

 反国家団体のレッテルのため、韓統連が受ける不利益と差別は一つや二つではない。パスポート発給の拒否や期限の縮小は旅行と移動の自由への大きな制約だ。韓国国籍の在日韓国人がパスポートを持っていない場合、中国(日本と中国の協約によって特別永住権者の中国入国は可能)と中国を通じた北朝鮮訪問を除いては、基本的に他国に行くことができない。また、社会団体として韓国政府との協力や共同事業を行うことができず、支援金も一切受けられない。独裁政権と結託した民団(在日本大韓民国民団)が毎年韓国政府から8億円の支援を受けているのとは対照をなしている。韓統連は本国からの支援金どころか、活動後援金の募金も弾圧される。韓統連の機関紙「民族時報」や韓統連が毎年主催する「統一マダン(広場)」行事のパンフレットに広告を掲載した在日韓国人が、領事館に呼ばれ、「反国家団体に金を払って広告してはならない」と警告を受けたこともある。「今年はなかったが、文在寅政権発足後の昨年までもこういうことがあった」と孫亨根は語った。

 -法制度的に名誉回復できなければ、政権によって再び差別と抑圧を受ける可能性もあるが。

 「その点で、韓統連は重い荷を背負っている。それは、今でも国家保安法に抑圧されている祖国韓国の状況を反映しているともいえる。そのため、その重荷を下ろすのは、自らの利益ではなく、祖国の解放、自由と統一の道へと進むことを意味する。大変だろうが、本質的な問題解決のために努力していこうと思っている」

 -具体的にどうするつもりか。

 「まず、来年三・一節(独立運動記念日)100周年共同行事がソウルで開催される可能性が高いが、韓統連も代表団を派遣する計画だ。その時、政府が私のパスポート(発給)にどう対応するかをひとまず見守りたい。おそらく、国情院では問題が複雑になったと思うだろう。私は空港で調べを受けて召喚状ももらったため、ほかの人ならいいがこの人はだめだと、国情院が入国拒否の口実にするかもしれない。もちろん、南北和解を追求する文在寅政権の政策基調からすると、当然、私のパスポートも発給されると思う。そうなれば、政治的には韓統連が無罪で名誉が回復されたと、私たちも受け止めることができる。それとは別に、憲法裁判所に憲法訴訟を再び提起することも考えている。前回の憲法訴訟は、政府がパスポートを発給しなかったため、在外国民投票ができなかったことに対する問題提起だったが、今回は1978年の誤った裁判による韓統連の名誉毀損問題に焦点を合わせる。もう一つの解決策は国家保安法の撤廃だ。根拠がそこにあるから、国家保安法からそのような項目が削除されれば、自然に反国家団体のレッテルから自由になれるだろう。そうした法的解決は、残念ながら簡単ではなさそうだ」

 大阪出身の在日韓国人3世の孫亨根は、1973年の創立当時から韓民統(韓統連)で活動してきた。20歳の頃(1971年)、韓国語を学ぶため、父親が所属していた大阪民団を訪れ、民団は傘下団体の在日韓国青年同盟(韓青)に彼を紹介した。独裁政権の下僕役を務める民団と対立して決別した韓青は1973年、韓民統の結成に参加した。孫亨根は韓青大阪本部副委員長(1975年)と韓統連中央組織局長(1995年)と事務総長(2001年)、副議長(2004年)を経て、2009年3月に韓統連議長に選出された。

 -朴正煕と全斗煥が、韓民統を反国家団体にして国内反対派の弾圧に利用したが、韓民統は最初から大韓民国支持を明確にしていた。記録や証言によると、金大中元大統領は1973年に韓民統を組織する際、日本の民主人士に「大韓民国を絶対支持、先民主回復後統一、朝鮮総連と連携しない」という3原則を提示して貫いたというが、大韓民国に対する韓統連の立場は何だったか?

 「絶対支持のようなものではなく、大韓民国の立場に立つべきだというのは明らかだった。統一運動も大韓民国の立場から行うことを原則としているが、それは韓民統の設立以来、これまで一貫した立場だ」

韓統連の前身である韓民統は、国内で『全泰壱評伝』(1983年)が出版される前の1978年、日本で全泰壱烈士とその母親イ・ソソン氏を素材に映画「オモニ」を作った。当時、日本の観客40万人がこの映画を見た。当時の映画ポスター=韓統連20年運動歴史//ハンギョレ新聞社

北朝鮮に対し静かに苦言呈してきた

 -独裁に反対しただけで、大韓民国に反対したわけではないということか?

 「そうだ。軍事独裁と軍事政権、保守政権を粘り強く批判し、反対する闘争を行った。金大中政権や盧武鉉政権、文在寅政権など民主政権に対しては強く批判したことはない」

 -民主政権でも批判すべきことは批判しなければならないのでは?

 「ハハ。良くやっているから批判しなかった。もちろん、民主政権にも様々な問題があるが、私たちは国外にいる。韓国にいれば、自分の生活に影響を与え、直接的な利害関係もあるため、政府の様々な政策に対して運動も行って、意見を出すのは当然だ。しかし、外国にいる私たちは、大きな視野でわが民族の運命に最も関心を持っている。そのような観点からすると、民主政権は南北関係の改善に向けて努力しており、それについては称賛すべきではないかと思っている」

 -領事館の身元確認書でもわかるように、韓国の公安機関は韓統連と朝鮮総連が非常に近いと考えている。総連との関係はどうか。

 「日本で暮らしているから、朝鮮総連と個人的な交流や関係は誰でもある。しかし、組織的には別の事案だ。汎民連(祖国統一汎民族連合)を作った時も、汎民連日本地域本部(韓統連)、汎民連朝鮮人本部(総連)を別にして、団体と団体として交流を行った。朝鮮総連とは、そうした公式的な関係以外には、特別なものはない」

 -韓統連の背後に北朝鮮がいるのではないかと疑う人もいる。北朝鮮との関係はどうか。

 「北朝鮮の指示や財政的支援を受けたことはない。韓統連はどこにも従属しない、あくまでも自主的な組織だ」

 -北朝鮮に対してはどのような立場なのか。

 「北朝鮮に対し、私たちの組織内でも様々な意見があるのは事実だ。北朝鮮が好きだという人もいれば、嫌う人もいるし、無関心な人もいる。組織の責任者として立場を言わせてもらうと、私たちは北朝鮮もやはり韓国の民主政府のように接してきた。北朝鮮内部的には様々な問題があるかもしれないが、彼らが対外的には平和と統一を掲げてきたため、公開的に批判したことはない。もちろん、北朝鮮関係者に会った時、個人的には、親子の権力世襲などについて、民主主義社会では考えられないことだという意見などを表明した」

 -韓統連は南北に対して第三者の位置にいるから、北朝鮮に対しても民主や人権など普遍的な問題を指摘できるのではないか?

 「たとえは、姻戚の家に何か悪いことがある時、公には攻撃的批判をしないのと同じだ。(そういう時は)姻戚の家に行って、静かに『こうした方がいいのではないか』と言うだろう。私たちも南側の民主政権や北側に対し、問題があっても、公に攻撃してはならず、内部的にアドバイス(助言)した方が良いという立場だ。そうしてこそ、南北双方から信頼を得て架け橋の役割ができる」

盧武鉉政権時代の2003年9月20日、光州国立5・18民主墓地を訪れた韓統連の郭秀鎬副議長(左)と東海本部の姜春根代表委員(中央)が韓統連2・3代議長を務めた金載華、裵東湖氏の遺影をそれぞれ持って参拝している=光州/チョン・デハ記者//ハンギョレ新聞社

父は大阪民団の幹部

 孫亨根は幼い時から日本社会の朝鮮人差別に遭い、民族意識に目覚めた。小学校と中学時代、日本人の生徒に「朝鮮人は帰れ」「朝鮮人はくさい」などと人種差別を受けた。小学6年のとき、銭湯で「朝鮮人は嫌い」という日本人の友達と小競り合いになり、窓ガラスが割れ、その子が大怪我をしたこともあった。高校を卒業する際は「ほとんどの日本の会社は朝鮮人を採用しない。覚悟した方がいい」と担任の先生に言われた。それでも、大学に進学したが、卒業しても就職できる場所がないことに気づき、結局中退した。彷徨していた彼は、父親の故郷(慶尚南道咸安)にでも行ってみようかと思い、韓国語を勉強するため、父が幹部を務めていた大阪民団を訪れた。民団の韓国語講習会は、韓青が主管していた。「許せない差別を受けながら、幼いながらも『祖国が統一されなければ、わが民族は皆死ぬ』という考えが直観的に浮かんだ。そのような民族差別の体験が、私の民族運動の原点と言える」。その後、40年以上にわたり「韓統連一筋」を走ってきた。

東京にある韓統連本部事務室=キム・ジョンチョル先任記者//ハンギョレ新聞社

 -韓統連の会員はどれくらいか。

 「(財政)支援する人まで含めて500人ほどだ。新聞(民族時報)は3千部送っている」

 -会員が思ったより少ない。減っているのか。

 「私たちだけでなく、他の団体も会員が減っている。会員が減ることより深刻なのは、自分が韓国人であることを自覚できない人が日増しに増えているという点だ。民族意識を高めるためには、民族学校に通わせて民族教育を行わなければならないが、民団系の在日韓国人らは大体子どもを日本の学校に通わせる。韓国系民族学校がいくつかあるが、日本語で授業を行うため、卒業しても韓国語ができないのも問題だ。日本全域に総連系が運営する朝鮮学校が100校ほどあるが、彼らの学校運営のノウハウや民族精神を学ぶ必要がある」

 -これだけは言いたいと思うことは?

 「わが民族がここまで来る間、韓国国民が大いに闘争し、苦労してきた。私たち在日も大いに闘った。その結果、朝鮮半島が平和と統一の道に進み、ともに喜びを分かち合うことができればと思っている。むろん、まだ困難が残っており、その困難を私たちも共に手を取り合って乗り越えていきたい。そのような過程を共にしながら、私と韓統連が汚名を返上し、名誉回復を果たして、再び笑顔で韓国に行きたい」

 孫亨根の最大の夢は、在日韓国人の若者に民族意識を吹き込むことだ。このため、夏休みや冬休みの間、本国と在日の青少年をホームステイ方式で交流させ、互いの文化を体験させる案を構想している。そばで聞いていた大邱(テグ)出身の金知栄が、「そのようなことを行うためにも、韓統連の復権が先に行われなければならない。私たちが平和統一運動を自由にできるよう、文在寅政権と文大統領がそれを進めてほしい」と話した。

東京/キム・ジョンチョル先任記者(お問い合わせ japan@hani.co.kr)
https://www.hani.co.kr/arti/international/japan/873575.html韓国語原文入力:2018-12-08 11:20
訳H.J

関連記事