俳優のS氏(49)は今年2月17日、著名シェフとともに中国・北京に食堂を開いた。メイン料理は韓国料理、前菜とデザートは洋食、和食を添えた大型の高級レストランだった。しかし3カ月に満たない5月にのれんを下ろした。THAAD(高高度防衛ミサイル)配備と関連して韓国を狙った中国の不買運動が最盛期だった。
北京で最も古い韓国食堂と言われるS食堂も大きな打撃を受けた。当時、中国人客たちは韓国人支配人を呼び、THAAD問題で難癖をつけた。団体客が予約をしてきては「なぜ韓国料理店なんだ」と内輪同士でもめた後、皆出て行ってしまったこともあった。
北京の韓国外食業界は今年に入って韓国食堂の売り上げが30%ほど減少したと見ている。ひどいところは70%近く売り上げが減った食堂もあるという。10年余り前までは韓国食堂の客は韓国人が中心だったが、その後中国人の割合が70~80%に達していたため不買運動の衝撃がさらに大きかった。
望京の韓国人社会のため息は、24日の国交正常化25周年を迎える韓中関係を象徴的に示している。しかし、北京の韓国食堂が困難に陥る事態は初めてではない。1995年から留学生の密集地域である五道口で食堂「コムチプ」を運営してきたキム・ヨンス氏(49)は「最初の頃は北京で開業した韓国食堂やスーパーマーケットのうち、97%は失敗した」と話した。キム氏は開業当初、町のやくざ者が訪れ「場所代」を要求したが幸い衝突なくけりをつけたというめまいのするような経験がある。周りの飲食店が一晩で撤去される間、やっとの思いで場所を守ったという覚えもある。
成功の保障はなかったが、成功を追い求める歴史は続いた。中国外交部傘下の諮問機構である中国アジア経済発展協会のチュイアン・スンジ会長は「その頃、韓国人たちは誰かが失敗して帰れば、他の誰かが再びその場に入った」と話した。キム・ヨンスさんは「最初の頃はサービスのノウハウ、インテリアなどで韓国食堂の水準は中国食堂と大きな差があった」と回想した。
このようなプロセスを経て形成されたのが、北京の他の外国人共同体ではなかな見られない「韓国人密集住居地域」だった。1997~1998年の通貨危機の頃に韓国人駐在員たちが市内の住宅費を調達できず、郊外に追われるようにして集まった北京東北部の“ニュータウン”望京、そして北京言語大学をはじめ、北京大学、清華大学など主要な大学が集中しており、留学生が集まった西北部の“一人暮らし街”五道口は、ハングルの看板の洗礼を受け、名実共に「コリアタウン」化した。
ただし、THAADの影響を迎える前にも、最近数年間は韓国人社会の苦悩が深まっていた。まず、北京の不動産価格が恐ろしい勢いで上昇した。キム・ヨンス氏は「韓国飲食店のオーナーのうち、建物の所有者は誰もいない。商店はほとんどが集合所有で、なかなか売り物がない」と話した。人件費も騰がった。コムチプの従業員の給料は1995年と今を比べると、7.5倍の差がある。韓国料理の独特さを掲げる環境も変わった。キム氏は「中国の消費者の立場では韓国料理はもう目新しい料理ではなくなった。朝鮮族同胞たちと競争して韓国食堂が『オリジナル』を強調することも難しい」と話した。
「THAAD被害」は、中国市場でこのように韓国企業の環境が悪化している最中に起きた「弱り目に崇り目」の打撃だった。旅行業界は団体観光の中止によって甚大な被害を被った。だが、「THAAD前」から中国の航空各社が急速に成長し、米国・欧州・東南アジアの直航便を増やすという変化に苦戦していた。電子商取引の発展のもとで急成長したオンライン基盤の中国の旅行会社のために価格競争力を確保することも大きな課題だった。
韓流コンテンツ業界がいわゆる「限韓令」のために大きな被害を受けた時点も、外国の思想の浸透を白眼視する中国当局がいつ手入れを行うかわからないという予測が出ていた時だった。「韓流」が結局は、中国の自国コンテンツの成長のための踏み石に止まるのではという懸念もあった。THAAD以降、韓国産自動車の難航は電気自動車など新しい要素とともに急激に再編される中国自動車市場の変化、中国国内メーカーが大幅に急成長した状況と切り離せない。韓国が長い間優勢だったスマートフォン業界も、THAAD事態よりかなり前から中国メーカーの挑戦で苦戦していた。このような点を考慮すると、現在のTHAAD局面が何らかの形で解消されたとしても、以前のように希望を持つことは容易ではないとという悲観が北京の韓国人社会内に広まっている。
韓国人の憂慮をあざ笑うかのように、「コリアタウン」は再び中国化している。2011年に北京市当局が採択した「大望京科学技術ビジネスイノベーションエリア」計画により、望京の北東部にはアリババ、美団、ウーバー、大衆点評(中国版食べログ)、シートリップ(旅行予約)、360トータルセキュリティ(セキュリティ)など中国の代表的な情報技術(IT)企業がずらりと立ち並んた。
望京のある不動産会社の職員は「6~9月が最盛期だが、住宅を求める韓国人客は昨年に比べて半分ぐらいに減った」とし、「韓国の顧客はむしろ来ていくらもたたずに急に帰国するケースが多いが、その場所に中国人の顧客が入るケースも増えている」と話した。大企業はまだ駐在員を減らしたという話はないので、中小企業や自営業者が先に影響を受けていると見ることができる。韓国人を対象に運営されたスーパーマーケット、塾なども人が減っている。多くの韓国人は賃貸料がもう少し安い順義、燕郊などの郊外に移住した。昨年末基準で中国公安が把握した6カ月以上北京に居住している韓国人は約2万人、短期訪問者を考慮しても全体で6万人未満だ。一時取り沙汰された「北京10万人の韓国人」時代は昔話になっている。
1994年に中国に来て以来ずっと北京に住んでいるソ・マンギョ・ポスコICT中国法人長(46)は、韓中関係を男女関係になぞらえ、「恋愛していた時代に戻る夫婦がいるだろうか」と話した。ソ法人長は1992年の韓中国交正常化後、最初の10年が初めて会った男女のようにお互いよく知らなくても友好的に向き合い理解を深めていった「探索期」とすれば、その後の10年は両国関係が燃え上がった「蜜月期」だったと描写した。そして最近5年は潜在していた問題に気づき始めた「関係の再確立期」であり、これからもしばらくの間このような状態が続く見通しであるだけに、以前に戻ることを期待するのは無理だということだ。
THAAD配備という難題に直面した中で、苦しみながら行われている「関係の再確立」の中で韓国人社会の省察と変化が必要だという提案も出ている。ソ・マンギョ法人長は「中国の韓国人社会は25年前に韓国人が一人もいなかった状況で、あまりに急に今の規模まで成長した」とし、「これからは、これまで先送りにしてきた中国社会との融合を進めなければならない」と話した。中国社会にしっかり根をはって現地化し、外部の影響を最小化するという提案だ。北京の韓国中小企業協会首席副会長(外食分科)を務めているキム・ヨンス氏は「大きな都市で大きく始めることばかり見るのではなく、小さな都市で小さく始めて礼儀正しく行えば、まだ中国には多くの機会があるだろう」と語った。