登録 : 2017.08.14 23:33 修正 : 2017.08.15 08:39

芦別に残る哀しい歴史の痕跡

丘の上に「慰安所」として使われた建物残る
住民たち「チマチョゴリを着た4~5人」
朝鮮人相手の売春に追いやられた現場

日帝強制動員された朝鮮人労働者
「地獄の労働」により逃走が続出すると
三井などの財閥企業が積極介入
日本全域各地に「慰安所」開設

植民統治の末端にいた被害女性たち
どんな経路で来てどこへ行ったのか
記録もほとんど残っておらず歴史の闇に

11日、北海道の芦別市に産業慰安所の建物跡が残っている。ポストの後ろに見える建物が慰安所として使われた建物で、今は民家として使われている=芦別(北海道)/チョ・ギウォン特派員//ハンギョレ新聞社

 「商店の後ろに小さな家が見えますね。そこが元は産業慰安所でした。今は元の面積の一部だけが残っています」

 11日、北海道芦別市の郷土博物館である「星の降る里百年記念館」の長谷山隆博館長は、丘の上の小さな家を指さした。今は民家として使われている赤い屋根の建物が北海道に残る唯一の「産業慰安所」跡だ。

 日本は中日戦争と太平洋戦争時期に炭鉱などに強制動員された朝鮮人労働者が苛酷な労働環境に耐えかねて逃走する事例が続出したため、朝鮮人女性を集めて性売買を強要するいわゆる「産業慰安所」を作った。日本の代表的財閥企業の三井が1992年まで炭鉱を経営した芦別に産業慰安所があったという事実は、村の人々が60年代から証言を通じて少しずつ知らされていたが、ここに連れて来られた女性たちの声や彼女たちの具体的事情はまだ明らかになっていなかった。

 1978年、この地域の高校教師だった杉山四郎氏は炭鉱で働いていた朝鮮人に聞いた話を証言した。1942年から芦別炭鉱で働いていた朝鮮人は杉山氏に「川の向こう側に慰安所があって慰安婦4~5人がいた。全部朝鮮の女たちだった。稼ぎの良い鉱夫には割引券が配られた。稼ぎが良いというのは、月に一度も休まずに働いたという意味だ」と打ち明けた。

 芦別炭鉱の朝鮮人寮があった所は川の下流で、慰安所に行くためには橋を渡って約3キロメートル歩かなければならなかった。朝鮮人労働者が渡った橋は昨年閉鎖されたが、当時の様子そのままにまだ残っている。

 長谷山館長は2003年、芦別炭鉱で働いた日本人の前田ヨシミツ氏から慰安所の存在を再確認した。前田氏は「朝鮮人女性のいる慰安所があった。慰安所のそばには広場があった。もし私が徴兵対象ならば私もそこへ遊びに行ったかもしれない」と証言した。

11日、北海道芦別市、今は閉鎖された橋が見える。朝鮮人労働者はこの橋を利用して慰安所に行ったとみられる=芦別(北海道)/チョ・ギウォン特派員//ハンギョレ新聞社

 2006年、慰安所の前にあったあさか商店の娘であるアサカシズエ氏からも証言を聞くことができた。「1944年高校生の時、春休みをむかえて家に帰ってみると、家のそばにあった炭鉱独身者用の寮が急に朝鮮料理店(慰安所)になっていた。そこにはチマチョゴリを着た女性4~5人がいた。そのうちの1人が身振り手振りで服の修繕を頼みに来て受けたことがある。1945年3月、高校を卒業して家に帰ってきた時にも慰安所があったが、戦後になって急になくなった」と話した。証言を総合してみれば、芦別炭鉱には1944年頃に産業慰安所が作られ、日本が太平洋戦争で敗戦した後の1945年以後になくなったと見られる。

 産業慰安所は日本政府の黙認または助長の下に企業が業者に依頼して作るケースが一般的だった。産業慰安所は九州、福島、北海道など炭鉱採掘や土木工事が行われた日本全域に作られ、日本の南部など在日朝鮮人が比較的多かった地域では既存の朝鮮料理店を業者が活用するケースが多かった。福島県と茨城県にまたがる常磐炭鉱の労務管理者が「会社が性売買する所を指定した。朝鮮の女性たちが相手した」と回想した記録が残っている。

11日、北海道芦別市に太平洋戦争後に石炭輸送のために作った橋が見える。橋の下の河川敷で朝鮮人労働者の遺骨発掘作業が2005年に行われた=芦別(北海道)/チョ・ギウォン特派員//ハンギョレ新聞社

 北海道では日本企業が積極的に関与した情況が一層明確に明らかになった。「開拓地」であった北海道居住の朝鮮人が在日朝鮮人全体に占める割合は1934年に1.7%に過ぎなかったが、39年「国民徴用令」を通じてここに強制徴用された朝鮮人労働者が急増し、42年には4.1%に増えた。企業は朝鮮人男性が急増すると積極的に介入して慰安所を設置し始めた。北海道炭鉱汽船が経営した夕張炭鉱では、企業が業者に慰安所の建物を無償貸与し物資まで配給した。

 長谷山館長は「三井が芦別炭鉱の慰安所に関する記録を持っていたが、なくしたのではないかと思う」と話した。三井は地域の炭鉱会社である芦別炭鉱から1944年に炭鉱を買収し、土地と施設をすべて引き継いだ。三井の許可なしに慰安所を運営することは不可能だったと見られる。あさか商店のアサカシズエ氏も、慰安所の前の建物に三井芦別炭鉱労務管理係の職員が住んでいたと証言した。職員が住んでいた所は慰安所のあった建物から100メートル程度しか離れていなかった。三井芦別炭鉱の労務管理係が慰安所の運営に関与した可能性が高い。朝鮮人寮は今は人の背を越える雑草が生い茂ったところに変わっていた。今は住民のための共同浴湯ができた町角には、当時は派出所があった。警察が朝鮮人労働者がどこに行くかを監視していた。

 芦別炭鉱には1944年6月、朝鮮人1905人と中国人760人、連合軍捕虜609人がいた。朝鮮人労働者は金が稼げるという誘惑に乗って日本に来た人と、1939年「国民徴用令」以後に強制徴用された人々だった。労働は苛酷だった。朝鮮人51人が事故と病気で亡くなった。2012年、日本と韓国の市民団体は河川敷に朝鮮人労働者を埋めた話を聞いたという元炭鉱職員の証言に基づいて発掘調査をしたことがあるが、遺骨は発見できなかった。調査チームは川が氾濫した時に遺骨が流失したものと推定した。

 芦別慰安所の朝鮮女性たちがどんな経路で北海道まで来て、慰安所が閉鎖された後にどこへ行ったのかは分かっていない。チマチョゴリを着て身振り手振りで服の修繕を頼みに来たという点から推測して、朝鮮出身で日本語はほとんどできなかった女性たちと推定できる。遠い北海道の炭鉱で苛酷な労働をした朝鮮人、日本当局が彼らの労働を効率的に絞り取るために動員した朝鮮女性たちは、日本植民統治の最も末端にいる被害者だった。彼らの悲劇は、記録もほとんど残っておらず、ただ薄い痕跡としてここに残っている。

芦別(北海道)/チョ・ギウォン特派員 (お問い合わせ japan@hani.co.kr )

韓国語原文入力:2017-08-14 21:07
http://www.hani.co.kr/arti/international/japan/806783.html 訳J.S(2909字)

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