最近、マレーシア・クアラルンプールで殺害された金正男(キム・ジョンナム)氏が父親の金正日(キム・ジョンイル)総書記の生前に後継者争いから外れた理由をめぐって、新たな観測が示された。
香港の時事週刊誌「亜州週間」は最近の号で、北朝鮮の高位消息筋高官を引用して、金正男氏が父親に中国式の改革・開放経済改革を推進したいと提言して“放逐”されたと伝えた。ロシア・モスクワとスイス・ジュネーブなどでの留学生活を終えた金正男氏が1990年代、北朝鮮に帰国して全国の視察を通じて経済の“持病”を把握した後、金総書記に改革・開放を強力に提案したということだ。金総書記がこのような話を聞いてから、金正男氏を警戒し始めたことで、後継者になる可能性が徐々に遠のいたと同誌は報じた。
金正男氏は当時、北朝鮮社会で少しずつ芽生えていた資本主義をめぐる議論にも積極的に参加したものとみられる。1996年には関連集会に出席し、中国式の改革・開放の必要性を主張したこともあったという。北朝鮮の対南組織である労働党統一戦線部出身と知られる脱北詩人のチャン・ジンソン氏も、似たような話をしたと同誌は伝えた。チャン氏が1996年8月の当該集会で見たという、ある「恰幅のいい若い男性」が演説した内容は以下の通りである。
「父は私に国家経済を少し再調整してみなさいと言った。私は経済を立て直すためには、中国式の改革・開放以外には方法がないと思う。まず企業を設立し、その後また子会社を立てよう。このように発展させていくと、資本主義にならないだろうか」。その後、一週間も経たないうちに金正男氏は、実際に平壌(ピョンヤン)中心部の大同江(テドンガン)区域に「光明星総公社」という看板を掲げて会社を作ったという。
金正日総書記は、このような金正男氏の言行を「危険な思想」と考えたと、同誌は伝えた。(金総書記は正男氏が)経済関連業務から距離を置くようにした。政治業務を任せる一方、息子の周辺人物らを逮捕し、関連活動を禁止させた。金正男氏が「安全保衛部副部長」など歴任することになった背景でもあるが、その後、金正男氏は父の“頑固さ”を痛感し、意気消沈して国外を放浪するようになったと見られている。
このような観測は、金正男氏が2001年、日本への不法入国事件で父親の金正日総書記の怒りを買い、後継を逃したという従来の仮説とは異なる。同紙は、このほかにも当時金正日総書記は、金正男氏の実母のソン・へリム氏ではなく、金正恩(キム・ジョンウン)労働党総書記の実母のコ・ヨンヒ氏に心がとうに傾いており、このような状況も後継者争いから正男氏が外れた背景だったと報じた。また、金正恩委員長が執権後、何度も人を送って金正男氏の暗殺を試みたが、金正男氏は中国の庇護で命拾いをしてきたとも伝えた。