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広島の韓国人原爆犠牲者慰霊碑にも悲しい歴史が…

登録:2016-05-12 23:13 修正:2016-05-13 07:22
1967年に平和公園内の建設を拒絶され 
被爆した朝鮮王族の李ウ 
発見場所の公園外に建て
11日、広島平和公園内の韓国人原爆犠牲者慰霊碑の前で日本人がガイドの説明を聞いている=広島/連合ニュース

1999年、日本の市民社会の努力で
公園内の現在の位置に移設
日本の慰霊碑から歩いて2~3分

 バラク・オバマ米大統領が27日、被爆地の広島を訪問することになり、平和記念公園に立つ「韓国人原爆犠牲者慰霊碑」にも献花されるか関心が集まっている。

 米日両国政府は、オバマ大統領の広島訪問日程の細部事項については「まだ決まっていない」として具体的には明らかにしていない。 先月11日のジョン・ケリー国務長官と同じく、広島被爆被害の惨状を展示した平和記念資料館を見た後に「原爆死没者慰霊碑」に献花する可能性が高いと見られる。 韓国の立場としての関心事は、慰霊碑から西北に歩いて2~3分で行ける韓国人慰霊碑も訪問するかという点だ。

 そこに建てられた韓国人慰霊碑は、我が民族が耐え忍ばなくてはならなかった二つの悲劇的歴史を抱えている。 最初の悲劇は広島原爆投下で亡くなった朝鮮王族の李ウ(<イウ>ウは金へんに禺、1912~45)の死だ。 李ウは朝鮮の最後の皇太子、英親王の異母兄である義親王の二男で、原爆の投下当時には日本陸軍第2総軍司令部教育担当参謀(中佐)として勤めていた。 被爆した李ウは1945年8月6日午後、爆心地付近の本川の相生橋の下で発見され、翌日に亡くなった。 義親王(1877~1955)は日本に順応した英親王とは異なり、帝国日本に国を奪われた後、ひそかに独立運動を支援し上海臨時政府への脱出を謀議したこともあり、日本政府の懐柔を最後まで断った人物だ。

 1967年、原爆被害者と在日本大韓民国居留民団を中心にした広島居住在日同胞は、記念公園内に韓国人被爆者のための追悼碑を建設する計画を推進する。 当初は肯定的反応を見せた広島市は「公園内の慰霊碑建設を許容することはできない」という態度に変わった。 在日同胞が日本社会で耐えなければならなかった差別と排除という二番目の悲劇だ。 建設委員会はやむなく慰霊碑を公園外の被爆した李ウが発見された場所付近に建てることにした。

 以後、在日同胞と朝鮮人被爆の事実を記憶しようと考える日本の市民社会の努力で、碑は1999年5月に現在の位置にある公園内に移設された。 碑文には「第二次世界大戦の終わり頃、広島には約十万人の韓国人が軍人、軍属、徴用工、動員学徒、一般市民として在住していた。 原爆投下により2万余名の韓国人が一瞬にしてその尊い人命を奪われた」と記されている。 広島で犠牲になった(南北を合わせた)朝鮮半島出身者は2~3万人と推定される。 これは広島全体の犠牲者の約1割に当たる数字だ。

東京/キル・ユンヒョン特派員 (お問い合わせ japan@hani.co.kr )
https://www.hani.co.kr/arti/international/japan/743618.html 韓国語原文入力:2016-05-12 19:32
訳J.S(1329字)

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