犠牲になった姜大興氏
埼玉県住民が「無念な死」追悼の墓碑建立
7年前から9月4日に追悼式
韓国外交統一委員会が無関心で
「真相糾明法案」は放置されたまま
「あちらにある墓碑です。上が死亡当時、下が最近作ったものです」
今月26日午前、埼玉県見沼区染谷にある常泉寺。1923年の関東大震災時の朝鮮人虐殺問題を研究している専修大学の田中正敬教授(史学)が、一行を寺の裏手にある共同墓地に案内した。一列に立ち並んだ墓碑に沿って中央へ歩いて行くと、珍しい模様の墓碑が目に入って来た。
91年前、ここ片柳村(現在、見沼区に統合)で住民に虐殺された朝鮮人、姜大興(カン・デフン)氏(当時24歳)の墓碑だった。現場検証に来た韓国韓神大学のパク・ゴウン氏(23)が墓碑に花束を置き、東京朝鮮大学校のファン・ヒナ氏(22)が線香をあげた。
姜大興氏は1923年9月1日、関東大震災の際に虐殺の犠牲となった朝鮮人のうち、名前が確認された非常に珍しい事例だ。大震災が起きると、当時の埼玉県警は県内に住んでいた朝鮮人を集め、県の北部にある群馬県などに移送する計画を立てた。姜氏はこの過程で集団からはぐれて道に迷い、片柳村に入りこんだと推定される。地震発生から三日後の9月4日午前2時、姜さんを見つけた住民たちは、彼を槍で刺して日本刀で斬り、悽惨に殺害した。高校教師である関原正裕氏(61)は「当時の新聞記事によると、住民たちが姜さんを殺害した事実を警察に知らせ、報奨を要求した内容が出ている」と話した。大震災の直後、軍と官憲が、朝鮮人が「井戸に毒に入れた」などのデマをまき散らし、これに付和雷同した自警団などが朝鮮人を虐殺した過程を確認できる事例として把握されている。
姜氏の墓碑は二つの部分から成っている。上側は死亡直後に作られたセメント材質の表面が粗い墓碑で、1923年9月の大震災時に死亡したという短い記述がある。
地域住民の高橋隆亮氏(70)は「村の人々が報奨をもらえると思って警察に虐殺の事実を伝えると、5人が殺人罪などで処罰されることになった。以後、地域住民たちが姜さんの無念の死を追悼して作った碑」と語った。1960年代から地域の在日朝鮮人と日本人を中心に真相を究明する動きが始まり、姜氏の死が改めて注目を集めるようになった。2001年、黒い大理石材質の見栄えの良い墓碑が作られ、2007年からは姜氏の命日である9月4日に合わせて追悼式も開かれるようになった。
成均館大学で関東大震災をテーマに論文を準備中のキム・ガンサン氏(26)は「日本では虐殺の歴史を絶えず明らかにして資料を作る方々がいる。それを見るたびに韓国人として恥ずかしさを感じることも多い」と話した。
現在、韓国の国会では、関東大震災時の朝鮮人虐殺事件の真相を究明して犠牲者たちの名誉を回復させるための特別法案が発議されているが、該当常任委員会である外交統一委員会の無関心の中でまともな審議は行われていない。
染谷(埼玉県)/文・写真 キル・ユンヒョン特派員 charisma@hani.co.kr