抱き抱えるように、赤ん坊を抱いたまま、現実が信じられないとばかりに精一杯に口を広げた…
闇の中にもつれるように、まっすぐ横になることが出来ずにいる800余体の遺骨が80余年前の秋夕(チュソク・旧盆)に起きた虐殺を当時のそのままに伝えていた。
17日、中国遼寧省撫順の平頂山虐殺記念館遺骨館には遺骨800余体が当時の原形そのままに保存されていた。 ‘遺骨の海’が200mを超えて続いた。 中国東北地方の交通・鉱物の要地である撫順を占領した日本軍は、1935年9月15日 中国抗日遊撃隊の襲撃を受けるやその報復として翌日に平頂山住民3千人余を集め虐殺した。 正午から始まった虐殺は機関銃まで動員されて午後4時頃になってようやく終わった。 日本軍は虐殺後、死体に油をかけて遺体を全て焼いた。 村は事件後、完全に消滅した。
その日が秋夕(チュソク)だったため、発掘現場からは真っ黒に焦げた月餅が弾丸やガソリン缶と共に発掘された。 赤ん坊の長寿を望む‘歳百命長’という文字が書かれた首飾りも出てきた。 1919年に起きた韓国京畿道(キョンギド)堤岩里(チェアムリ)で起きた虐殺事件を連想させる事件だ。 村は100人余りの生存者がいなかったとすれば、歴史からも完全に消えるところだった。 生存者たちは以後、内外信に平頂山虐殺を証言した。 戦後、平頂山虐殺を主導した7人の日本軍将校らは戦犯裁判で死刑を通じて断罪された。
博物館の最後の展示室には‘前事不忘後事之師(過去を忘れず未来の師としよう)’という文が架けられていた。 周學良 記念館長は「歴史を直視し教訓を得てこそ悲劇が再び起きない」と話した。
現場訪問行事を主管した中国外交部傘下の外国新聞記者センター(IPC)と遼寧省外事弁公室は、虐殺記念館訪問後に中国が人道主義的に第2次大戦日本軍戦犯1000人余りを管理した戦犯管理所を紹介した。 日帝の蛮行と中国の寛容を克明に対照させようとする意図がつまった日程だ。 映画<ラスト・エンペラー>の冒頭の場面に出て来る溥儀の刑務所場面の背景がまさにこの戦犯管理所だ。 管理所には溥儀が収監された部屋と治療を受けたというベッドなども展示されている。
ここには浴場と理髪店、医務室、製パン室などが備わっていた。 管理所側は体育、娯楽活動と精神教化で戦犯を教化させ‘撫順の奇跡’と呼ばれていると話した。 収容所入り口には「世界のすべての人類を解放させてこそ、はじめて無産階級自らを解放できる」という、収容所の精神改造政策の文が書かれている。 周恩来前総理は「撫順収容所が模範的に戦犯の政治矯正業務を遂行した」と話しもした。
展示館には当時戦犯たちが運動会や芸術行事を行うのに使ったサッカーボールやテニスラケット、チェス盤、太鼓と旗、アコーディオンなどが置かれていた。 医務室の前には当時脳疾患を起こした日本軍高位幹部を4年余りも世話し床擦れができないように看護したという説明も写真と共に貼られていた。 一部の戦犯には義足まで作ってあげたという記録もあった。
戦犯たちは午前5時に起床して8時に朝食を食べた後、11時30分まで反帝国主義、中国革命に関する教育を受けた。 午後には再びそれぞれ2時間の運動と教育を受けた後、夕食をとり2時間の娯楽活動の後に8時に就寝した。前日、日帝が運営した連合軍捕虜を過密な木製ベッドにぎゅうぎゅう詰めにして眠らせ、一部には生体実験をしたりもしたという連合軍捕虜収容所とは自然に対比されざるをえなかった。 ここに収監された多くの戦犯は戦後に日本に戻った。 展示館の最後の部屋には元日本人戦犯中国帰還者連合会が送った‘中国人の寛容政策に感謝する’と書かれた文が懸かっていた。
中国外交部と遼寧省外事弁公室は16日と17日に行われた外信記者招請行事を綿密周到に進行した。 訪問場所と順序を緻密に配置し、日帝の侵略( 9・18歴史博物館訪問)→残虐行為(日帝連合軍捕虜収容所、平頂山記念館)→中国の寛容(撫順日帝戦犯管理所)というあらすじを描いた。 中国側は‘残忍で反省のない軍国主義’日本と被害者だが和解と容赦を施す‘大国’中国を対照的に浮き彫りにすることに精魂を傾ける様子だった。
明らかな意図にあわせて周到に構成された行事であった。
撫順/文・写真 ソン・ヨンチョル特派員 sychee@hani.co.kr