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[週刊ハンギョレ21]「長崎の鐘」はいかに鳴らされたのか

登録:2014-12-22 22:51 修正:2014-12-23 06:55
原爆投下を「神の摂理」として受け入れた永井隆
長崎の原子爆弾の痕跡のうち広島と異なるのはカトリックに関する遺跡だ。平和公園近くには日本最大のカトリック教会浦上天主堂がある。長崎平和公園で被害者に黙祷を捧げている日本の学生たち。キム・ソングァン記者//ハンギョレ新聞社

科学者でありながらカトリック教徒だった彼は天皇主義者でもあった

 長崎といえば何をイメージするのか?中国南部の福建地方に由来したという長崎ちゃんぽんや長崎皿うどん?あるいはポルトガルから伝わったとされる長崎カステラ?あるいは長崎県佐世保にあるヨーロッパの街並みを再現したテーマパーク、ハウステンボス?長崎と言えば浮び上がる「異国」の香り漂うこのような言葉からは、長い「鎖国」の中、「出島」と呼ばれる「島ではない島」を通じてオランダや中国などと着実に貿易をしながら培ってきた長崎の開放的な文化がうかがえる。しかし、長崎には別の歴史の影もある。

怒りの広島、祈りの長崎

 長崎港からわずか17キロほど離れたところにある端島は、強制動員した朝鮮人労働者たちが奴隷のようにこき使われた炭鉱があったことで有名だ。当時三菱造船所で建造中だった軍艦に形が似ていることから、「軍艦島」とも呼ばれており、また島から脱出しようとした朝鮮人労働者が後を絶なかったことから、「監獄島」とも呼ばれたところだ。ここから脱出するため泳いで海を渡ろうしていた朝鮮人労働者のうち、無事に陸に辿りついた人はほとんどいなかったと言われており、米国サンフランシスコのアルカトラズ(Alcatraz)を連想させる。ところが最近、日本の一部で朝鮮人強制動員の歴史を消し去り、日本の近代産業革命の成功物語だけを掲げ「軍艦島」を世界文化遺産に登録させようとする動きがあるというから、胸が詰まる思いである。

 別の歴史の影もある。よく知られているように、長崎は1945年8月9日、原子爆弾の洗礼を受けたところだ。長崎でも近代的遺跡と一緒に原爆関連の平和公園があり、図書館や博物館も建てられている。ところが、広島では見られない原爆にまつわる歴史の跡が、長崎では簡単に見つかる。カトリック関連の遺跡だ。平和公園の近くにある浦上天主堂は信徒数7千人を誇る日本最大のカトリック教会だ。この大聖堂は原爆によって跡形もなく破壊され、告白聖事のミサ中の司祭と副司祭を含む信者がすべて死亡した。

キリスト教国家アメリカの「カトリック都市」攻撃

 広島にはウラン型原爆「リトルボーイ(少年)」が、長崎にはプルトニウム型「ファットマン(ふとっちょ)」がそれぞれ投下され、広島では、以降5年間で約20万人が死亡し、長崎では、約14万人が死亡した。このうち朝鮮人犠牲者は約10%と推定される。ところが、広島と長崎は原子爆弾の洗礼を受けた都市という点では同じだが、被爆都市としての存在感を表す方法と方向は多少異なり、また二つの都市の間には被爆体験をめぐる妙な「競争構図」がある。広島が自らを「人類初の被爆都市」だと言えば、長崎は反核の将来の意志を込めて「人類の最後の被爆都市」だという。広島が自らを「平和都市」だとアピールすれば、長崎は「国際文化都市」だという。日本で原子爆弾の悲劇を表現するとき、広島長崎とは言っても、長崎広島とは言わない。もちろん、時間的な前後を基準に並べたものだが、この順序は、時には被爆体験のヒエラルキーを作り出すこともある。だから社会学者高橋眞司氏は長崎を広島と比べ「劣等被爆都市」とまで言う。

 両都市の被曝経験とその継承を比べる時、「怒りの広島」と「祈りの長崎」という言葉がよく使われる。もちろん、このような対比が必ずしも現実をそのまま反映しているとは限らないが、概ね広島が動的で激情的な反核運動のイメージだとすると、長崎は静的で隱忍のイメージという意味で用いられる。実際長崎が「祈り」で形容されるには理由がある。先に述べた浦上天主堂の存在からも分かるように、長崎は日本カトリックの中心地だ。洗礼を受けたカトリック信者が2006年現在、日本全域に約45万人いるが、このうち長崎に6万5千人(長崎人口の4.4%)が住んでいる。ここで明治維新(1868年)前後に約600人のカトリック信者が殉教したのだから、長崎はまさにカトリック迫害の聖地であり、信仰の場所だ。さらに、原子爆弾が落とされた爆心地は日本最大のカトリック教会である浦上天主堂からわずか500メートルしか離れていなかったため、カトリック信者の犠牲が多くならざるを得なかった。「キリスト教国家」アメリカが日本のキリスト教の中心地を原子爆弾で攻撃したのである。

 実際には、米国が元々長崎、その中でもカトリック信者が密集して暮らしていた浦上地区を攻撃目標にしたわけではなかった。長崎から東側に少し離れた小倉を攻撃目標にしていたが、天候のため長崎に目標を変更し、長崎の旧都心を標的に原子爆弾を落とそうとしたのが予定の軌道を外れ、当時の郊外だった浦上地域で爆発した。浦上には、旧都心に住んでいた長崎っ子たちによる差別を避けカトリック教徒や被差別部落民が多数居住していたので、彼らの犠牲が大きくなった。偶然に偶然が重ねられた結果ではあったが、長崎の被爆経験はカトリックと分離することができなくなり、よって「祈り」という言葉で長崎の被爆体験を形容するのは歴史的経緯からして非常に自然なことだ。しかし、カトリック教徒が多かったとして被曝経験が必然的に「祈り」という言葉へとつながるわけではない。「祈りの長崎」というイメージが作られるのに重要な役割を果たした人物の中に永井隆(1908〜51)がいる。

 浦上天主堂の近くに「如己堂」という素朴な木造の建物がある。長崎の被爆体験を辿るために欠かせないところである。日本語で「にょこどう」と読むこの家は、「如己愛人」の略で、「あなたの隣人を自分のように愛しなさい」というマタイ福音書の一節から名づけられた。医師で作家の永井隆が1948年から1951年までの約3年間、病魔と闘いながら、自分の被曝経験を執筆したところである。永井は1908年、医師の息子として島根県で生まれたので、長崎っ子ではない。医師の道を歩くために長崎医科大学に入学して長崎に移り住んだのは、彼が二十歳になった1928年頃である。以来、彼は勉強に邁進して1940年には母校の教授に就任し、1944年には母校で医学博士号を取得する。軍医として「参戦」した満州事変と日中戦争の時期を除けば、それこそエリートコースを歩んできたわけだ。しかし、放射線治療の研究に邁進していた1945年6月には白血病と診断され、1945年8月には原爆で頭を大きくケガするなど不運が続いた。その中でも、彼は患者の世話をする医師の道と科学者の道をあきらめず、作家としても多くの作品を残した。

「祈りの長崎」を作り出したのは永井隆の『長崎の鐘』という本の影響が大きかった。韓国にも1949年に翻訳され増刷されるほど人気があった『長崎の鐘』は最近『その日、長崎に何があったのか』と題名で再発刊された。クォン・ヒョクテ提供//ハンギョレ新聞社

権力者に有利な、二重の免責言説

 被爆者は被爆者という一つの姿で描かれがちだが、実際には、様々な生き方や考えを持っている場合も多い。永井もそうだった。彼は医者であり、科学者(原子物理学)でありながら作家であったが、同時に、カトリック教徒でもあった。彼は被爆者と原子爆弾に否定的だったが、科学者として原子力の平和的利用(原発)を積極的に支持した。また、彼は敬虔なクリスチャンらしく原爆投下を「神の摂理」と解釈し、犠牲者を神様の祭壇に捧げる子羊に、そしてこの意識を「燔祭(ホロコースト)」として受け止め、生き残った被爆者たちには原爆投下を「神が与えた試練」だとし、「神に感謝」すべきだと主張した。「祈り=隠忍=自重」を主張するこのような永井の言説は、後に学者らによって「浦上燔祭説」と命名された。永井の主張を一カトリック教徒の個人的な信仰告白として受け止めることができない理由は、彼が長崎に少なからぬ影響力を持つ知識人だったからだ。また、長崎の被爆体験を切々と描いた『長崎の鐘』がベストセラーとなり、彼の「信仰告白」が長崎の被爆体験を代表する言説となったという事情も無視できない。このため、永井の「浦上燔祭説」は、後日、多くの批判を受けることになる。長崎の被爆者である詩人山田かん(1930〜2003)は、原爆を投下した米国に向かうべき「民衆の怨恨」を「神の摂理」という言葉でなだめるような米国側のデマゴギーに加担する言説だと批判しており、作家井上ひさし(1934〜2010)も「神様の摂理」は、原爆投下の責任の所在をあやふやにする権力者に有利な言説だと非難した。また、社会学者の高橋眞司は永井の「浦上燔祭説」は、天皇の戦争責任と米国の原爆投下責任をなかったことにしてしまう「二重の免責」の言説だと批判した。

 彼の最初の作品『長崎の鐘』(1946年執筆)が出版されたのは、1949年1月だ。原爆関連書籍の出版を厳しく禁止していたGHQが検閲の目を光らせていた時期だ。GHQは日本軍によるフィリピンの住民虐殺を取り上げた『マニラの悲劇』という報告書との合本を条件として出版を許可した。おそらく日本軍の残酷な虐殺と原子爆弾の悲劇を相殺させる意図だったのだろう。しかし、同時に「神様の摂理」を掲げる永井の「浦上燔祭説」が原子爆弾の米国の責任を覆い隠す役割を果たすだろうと考えた可能性も高い。このような事情が反映されたせいか、1949年病床までお見舞いに訪れた裕仁天皇を前に、永井は涙を流しながら感激する。カトリックの信仰と神道という「宗教でない宗教」イデオロギー、近代科学と前近代的君主、平和への信仰と天皇の戦争責任の間で、彼が葛藤していた形跡はない。科学者でありながらカトリック教徒であった彼は天皇主義者でもあった。「祈りの長崎」は、少なくとも永井にとっては天皇主義と矛盾するものではなった。

天皇主義者を隠したい人々

 『長崎の鐘』(イ・スンテク訳、三日出版社)は、1949年8月に韓国でも翻訳出版され、1950年2月までに7刷を重ねた。日本で出版されてからわずか半年でハングル翻訳版が出たのである。大阪大学大学院のソ・ユンア氏の研究によると、当時の韓国の新聞には「原子爆弾が第二次世界大戦を終結させた!(...)解放後最大のベストセラーを見てみよう!」という広告が掲載されたというから、韓国でも少なくない反響を呼んだようだ。

 この本は、2011年『その日、長崎に何があったのか‐長崎の鐘』という題名で再出版された。ところが、1949年、日本語原版に「浦上が屠られた瞬間初めて神はこれを受け納め給い、人類の詫びをきき、忽ち天皇陛下に天啓を垂れ、終戦の聖断を下させ給うたのであります」とされている永井の発言が、2011年韓国語翻訳には「浦上が爆撃により灰に変わる瞬間、まるでイエス·キリストが十字架にかけられ亡くなった時、それを受けいれ人類を救ってくださったように、神は最終的に私たちを赦し、終戦を与えられました」となっている。つまり、永井が記した「天皇陛下」という言葉が削除されているのである。永井から天皇主義者の姿を消したい人が日本とは異なる文脈で韓国にもいるようだ。

クォン・ヒョクテ聖公会大学校日本学科教授(お問い合わせ japan@hani.co.kr )

韓国語原文入力:2014/12/18 15:10

http://h21.hani.co.kr/arti/COLUMN/151/38589.html  訳H.J (4832字)

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