1945年の解放後、日本に留まり定住することになった在日朝鮮人は、極限状況だった戦後空間で、はたしてどのように生存できたのだろうか。青巖大学在日コリアン研究所のパク・ミア学術研究教授が最近、自身の博士論文をもとに出版した『在日朝鮮人と闇市』は、在日朝鮮人が戦後日本で形成された「闇市」といかに不可分の関係を結ばざるを得なかったのかを、様々な史料を通じて綿密に調べた本だ。
著者は、在日朝鮮人と闇市の関係に注目した理由について「闇市は解放後に形成された在日朝鮮人経済史の出発点といっても過言ではない」からだと述べている。焼肉とパチンコは、在日朝鮮人の産業を代表する二大業種だが、これも戦後形成された闇市での在日朝鮮人の活動と密接な関連がある。日本では戦時中から闇取引が盛んに行われたが、敗戦後には公権力が無力になった状況に乗じ、全国的に闇市が生産と消費、流通を支える公然の場所になった。都市ごとに鉄道駅の周辺の空き地に闇市が生まれ、個人運搬業者である「担ぎ屋」が、鉄道に乗り主要産地を訪ね歩き、農産物などを入手してきて、そこで売った。闇市は5年ほど存在した逸脱的なシステムだったが、在日朝鮮人にはその後の生活全般に深い影響を及ぼす主要因子として作用した。
解放以前から日本社会の経済的下層部にとどまっていた在日朝鮮人は、資本や技術、人脈などが十分ではなかった場合が多く、このように日本人が形成した闇市に生計の手段を求めざるを得なかった。闇市でホルモン焼きや密造酒を売った彼らが、焼肉専門店を開業したり、資本を集めパチンコ店に進出する場合もあった。しかし、闇市で担ぎ屋として働いたり、密造酒を製造し売ったりして取り締まりにかかれば、生活保護の対象になるなどの過程を経るのがほとんどだった。東京の上野、大阪の梅田と鶴橋、神戸の三宮などでは、在日朝鮮人が闇市に独自の商圏を形成したりした。ただし、その過程では日本の闇市の組織と官僚組織との困難な闘争や交渉がついてまわった。
特に著者は、日本人が形成した闇市で在日朝鮮人が享受できた権利は一時的で制限的だったにもかかわらず、日本の主流社会が闇市での在日朝鮮人の役割を針小棒大にし、経済撹乱の主役というイメージをかぶせたと強調する。戦後空間での生存ですら、在日朝鮮人は構造的な差別のくびきから自由ではなかったという指摘だ。