「新羅古墳陵主の神様! 発掘調査期間、天地が平安で、…様の偉大な痕跡が万国に華麗に花咲かせられるよう照覧願います!」。春の気配に満ちた新羅古墳丘、その上に立つ欅の巨木の前で祭官が祈願文を読みあげる。 2日昼、慶州(キョンジュ)路西洞の古墳公園では、金冠塚(クムグァンチョン)発掘成功祈願告由祭が開かれた。聖徳大王神鐘の音が鳴り響く中で、別の祭官が心を込めて土器を模した杯に酒を注ぎ捧げた。 金冠塚の墓前に集まった市民約200人の注目が豚の頭と金冠模型が捧げられた祭壇と燃え上がる魂火に集中した。
金冠塚は1921年に初めて金冠が出土し、古代新羅の黄金文化の序幕を切り拓いた遺跡だ。 今回の発掘はその年の9月に酒場の工事で偶然発見された金冠塚に対する未完の調査を94年ぶりに終える意味を持つ。 当時の調査はずさんそのものだった。墓が発見された直後、住民や日本人らが副葬品を盗掘でもするように持って行ってしまった。墓から出た玉を子供たちが持って遊んでいて、それが巡査の目についたことが遺跡が知られる端緒になった。一歩遅れて行われた総督府と日本の京都大学の調査も僅か三日で終えられた。 どのように調査がされ、以後の管理がどのように進行されたかが分かる記録、写真、図面は一つも残さなかった。 博物館が慶州古墳の最初の再調査対象に金冠塚を挙げたのも、報告書を書けない程に当時の調査資料が殆どなく、直接掘ってみるしかないと判断したためだ。
祭礼を主管した中部洞青年連合会イ・クンフン会長は「子孫として墓の主人を知らずにいる状況が恥ずかしい。調査で王陵の主人を速く探しだすことを望む」と話した。しかし6月まで進行される調査でこのような希望が実現されることは容易でない。 キム・テファン学芸士は「焦点は墓の主人が埋められていた場所、すなわち埋葬の主体部の構造を確認すること」と話す。 1921年の調査当時、金冠と刀などの遺物が出てきたところが正確に分からないためだ。
副葬品と遺体が埋められたところが今どんな状態なのか、ある程度残っているならばどんな構造なのかを確認することがカギになる。 2年ほど前に国立中央博物館が1921年のこの墓からの出土品である環頭大刀に“イ斯智王”(イサジワン、イは傘冠に小)の銘文が彫られていることを確認し、銘文に出てきた王が金冠塚に埋められた人物なのかを巡り論議が続いていることも変数だ。大刀は枕元から出たという証言が伝えられているが、今回の調査で大刀が出てきた位置が別のところであることが確認されれば新局面を迎えることになる。大刀が出てきた位置が実際の所持物と判断される程に遺体に近ければ、それにより“イ斯智王”が埋められた人の名前になり得る。墓がほとんど失われ、基盤の一部だけが丘のように残った金冠塚の直径は46メートルを超えると推定される。 墓の周囲の護石が付近の新羅最大の古墳である鳳凰台とつながっている可能性があり調査の結果が注目される。