森で資本主義を補完する
藻谷浩介・NHK広島取材班著
キム・ヨンジュ 訳
東アジア社・1万5000ウォン
日本の本州南西部の大阪と広島の中間にある岡山県の小さな都市、真庭。海抜1000メートル前後の山々が連なるその北側の中国地方の山間のある山村。『森で資本主義を補完する』(原題:里山資本主義)の共著者である夜久恭裕氏は「ここで日本、いや世界最先端のエネルギー革命が進行している」と書いた。
そこにある大型木材加工会社 銘建工業は製材所であり発電所を稼動している。発電原料は木材の加工過程で出てくる木の皮、木片、かんなくずなどの副産物(年間4万トン)。 産業廃棄物だったそれら副産物が、年間2000世帯分の電力を生産する発電所のバイオマス燃料になった。こうして年間1億円に達する電気料金が節約され、残った電力は電力会社に売って年間5千万円の収入を得ている。 その上、年間2億4千万円に達する産業廃棄物の処理費用もかからないので、この会社は年間4億円の利益を稼いでいるわけだ。
この会社はおがくずを長さ2センチの円筒形に圧縮した木材ペレットも生産し、その地域の家庭や企業のペレットボイラーに供給する。 真庭市全体が消費するエネルギーのうち、このような木材エネルギーで充当される比重が11%を占める。 太陽光や風力などの他の再生可能自然エネルギーが、日本全体のエネルギーに占める比重が1%しかならないのに比較すれば非常に高い数値だ。
このような革命は広島北端の庄原市でも進行している。 総人口に占める65歳以上の比率が40%に肉迫するこの地では、木材燃料を使うエコロジーなストーブが以前の電気や石油燃料を代替してしまった。13戸あった集落が4戸に減った人口過疎化、高齢化が進行中だったここに住民たちは、ストーブだけでなく食料や肥料もここで育つ自然産物で賄っている。 地域通貨まで作り自ら生産した完全無公害食品を安く、または無料で交換して、地域が生産した富の最大外部流出通路として巨大企業が独占していた資源・エネルギーを自給することによって地域経済はよみがえった。 原子化され孤立した人々が自然、人とのきずなを回復して共同体もよみがえり、人生の喜びを取り戻した。
都市文明に憧れて村を抜け出た若者たちも帰って来始めた。彼らは地域企業で以前の10分の1に過ぎない給料を受け取るが、支出が劇的に減って、はるかに味がよく安全な食べ物と余裕、隣人とのきずなを楽しみ生活は“びっくりするほど”豊かになった。
『森で資本主義を補完する』は、このような現場取材事例を示し2008年の金融危機以後に矛盾が目立っている現実資本主義の代案ないしは補完としての「里山資本主義」の効用を力説する。
高齢化・過疎化とともに廃虚に変わっている日本の地域を生き返らせるため、理論的・実践的作業を精力的に繰り広げてきた藻谷浩介氏(51)がNHK取材班と共著で書き構成したこの本は、長期不況に陥った日本再生の道を成長・競争などの既存方式に求めてはならないと話す。「『マネー資本主義』の勝者としての日本の地位をなんとかして回復させ、そこで得られるお金の力を基に土木工事を通じて自然災害を防止し、軍事力を強化して周辺国にも毅然と対処するというマッチョ的な方法」、「公共投資による国土強靭化、金融緩和を通じてインフレーションを誘導することによって景気を刺激する方法との組み合わせ」がそれだが、安倍政権など日本の官民が執着するその方式には答がない。里山資本主義はアメリカ主導下のマネー(金融)資本主義、マッチョ経済に対比される概念だ。
彼らが里山資本主義が最も発達した「21世紀型先進国」として紹介する国はオーストリアだ。 憲法で「脱原発」を明記しているオーストリアは、エネルギー生産量の約28.5%を再生可能エネルギーで充当しており、ヨーロッパ連合全体が2030年までにバイオエネルギー比率を34%までに高めるという目標を立てている。
オーストリアは現在、自国の山林が1年間に成長する量の70%を利用しているが、これを100%まで高める計画だ。 これは結局、山林再生産能力を全く損傷せずにその山林が生産した年間エネルギーを十分に活用するということだ。 持続不可能な石油・ガスなどの化石エネルギーに代わる「持続可能な方法」だ。 著者はこれを「オーストリアの林業は元金に手を付けずに利子だけで生活していると言える。これが彼らの根本哲学」と要約した。
ヨーロッパでは木材を加工した「直交するように積層接着した板」(CLT)で9階までの高層木造建築物も作っている。このような加工木材は、鉄筋・コンクリートより軽く、親環境的であり、更に強く火災にもよく耐えて数百年の耐久性を持っている。日本でもこの新技術の実用化を急いでいる。
著者はしかし、里山資本主義が資本主義自体に完全に代わる代案というよりは、それを補完し危機時にバックアップをするサブシステム程度として見ている。