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“抗日武装軍”を討伐したその手で大韓民国の要職を接収

登録:2014-03-10 00:53 修正:2014-03-10 08:21
『間島特設隊』
キム・ヒョスン著
西海文集 発行

「間島特設隊」の抗日独立軍討伐の実相を解明

 日帝の朝鮮半島強制併合100年であり、朝鮮戦争勃発60年になる2010年頃、「大韓民国 国軍現代化と建軍の父」である“戦争英雄”白善燁(ペク・ソンヨプ)氏を元帥に推戴しようとする動きが一部でかまびすしかった。まだその気勢が完全に折れたとは見えないが、白善燁元帥推戴の動きの足を引っ張った決定的な要因の一つは、彼が間島特設隊将校出身であるという点だった。 間島特設隊とはいったい何なのだ? そのようにして、おそらく大韓民国建国以来初めて間島特設隊が大衆的な関心事として浮上した。ところでその結果、私たちは間島特設隊についてよく分かったのだろうか?

 隠ぺいされた近代の裏面の探究に関心を傾けてきた言論人キム・ヒョスンの『間島特設隊』を見れば、間島特設隊に対する私たちの認識が非常に断片的あるいは偏向的である可能性が高いという考えを持つようになるだろう。

 例えば、彼がこの問題を取材する中で会った間島特設隊勤務者たちは、特設隊が間島など満州地域の抗日独立運動勢力を“討伐”“掃討”するために作られた組織ではないかという指摘に対し、こう答えた。「独立軍は見たこともない。討伐対象は“共匪”や“八路軍”だけだった。 」 全員がそう言ったわけではないが、依然としてそんなふうに答える人たちがおり、当事者の多くはその点に関して言及そのものを避ける。しかし、これは自家撞着である。日帝といくつかの親日新聞が当時、共匪だとか匪賊だとか言って非難していたのが、ほかでもない抗日独立軍だった。 著者が中国当局の公式資料を通して確認したところによれば、延辺(間島)地域の場合、日帝と当時の親日新聞などが “共匪” だの “匪賊” だのと言って中傷し“討伐”対象としていた公認“抗日烈士”3125名のうち、朝鮮人の割合は98%にも達する。もちろん、後に中国人民軍となる八路軍もまた、盗賊集団ではなかった。結局、間島特設隊が討伐した対象は抗日抵抗勢力だったのであり、その多くは朝鮮独立運動家だったのである。

 『間島特設隊』は、満州傀儡国の奉天軍官学校9期生で間島特設隊将校であり満州軍延吉憲兵分団中尉でもあった白善燁氏の創氏名が白川義則であったことも、当時の延吉憲兵分団長 曽根原みのるの回顧録を引用して明らかにしている。 白川義則という日本名の通常の読み方は「しらかわよしのり」だ。「しらかわよしのり」といえば、1932年4月上海の虹口公園(現 魯迅公園)で尹奉吉(ユン・ボンギル)義士の投げた爆弾に当たって死んだ、関東軍司令官と陸軍大臣を歴任して当時上海派遣軍司令官だった、まさにその日本陸軍大将の名前ではないか。漢字も全く同じだ。偶然の一致かもしれないが、1920年生まれで平壌師範学校を出た“明敏な”日本軍(満州軍)将校だった白氏が、よりによって1931年の満州侵略の余勢を駆って“上海事変”まで起こして影響力を拡大しようとしていた有名な日本軍司令官の名前を自分の創氏名とした理由が知りたい。

 白氏は自身が書いた日本語版 <対ゲリラ戦-アメリカはなぜ負けたのか> でこんなことを言っている。 「私たちが(朝鮮抗日独立軍を)真剣に討伐したために韓国の独立が遅れたわけでもないし、私たちが逆にゲリラになって闘っていたら独立が早まっただろうということもあり得ない。それでも同胞に銃を構えたのは事実であり、批判されても仕方ない。」

 果たしてそうだろうか。個人がどのようにしようと何にも変わらなかったろうから、親日にしろ反日にしろ各自が自分の判断に基づいてやったことを問題にしてはならないのだろうか? ならば、日本帝国主義と親日勢力に対抗して自分と家族と家門を犠牲にして民族解放のために戦った人々は、無駄なことをした愚かな人間たちなのか? 批判されても仕方ないという白氏の言葉をどう受け止めるべきか?

 白氏だけではない。間島特設隊情報班の責任者であり、第2代海兵隊司令官と在郷軍人会副会長を務めたキム・ソクボムは <満州国軍誌>(1987) の序文で、次のように自画自賛した。「建国建軍40年余りになる今日、50余名の将軍級と多数の佐官級高級将校が輩出されて、祖国の独立と自由守護に貢献した。我々は、大統領、国会議長、国務総理、国防長官、軍参謀総長、海兵隊司令官、軍司令官、軍団長、師団長、連隊長、高級参謀など政府と軍の要職を歴任し、その勲功は建国建軍史に輝いている。」 彼の言う「我々」とは、日本の関東軍が統治していた間島特設隊などの満州軍出身者たちを指す。

 『間島特設隊』は韓国だけでなく日本でも中国でも、いまだにまともな研究成果をほとんど出せずにいる間島特設隊を、総合的・多面的に考察した稀少な本だ。間島特設隊だけでなく、当時の満州地域の情勢全般を、希少な資料と現場取材を通じて綿密に考察している。

ハン・スンドン記者 sdhan@hani.co.kr

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間島特設隊の初期指揮部。1930年代初め、中国共産党の満州全体の党員のほぼ半数が朝鮮人であり、東満州地区党員の90%以上が朝鮮人だった。間島特設隊創設は、このような状況を変えようとする日帝の工作の延長線上にあった。西海文集提供

抗日武装軍を討伐したその手で大韓民国の要職を接収

「間島特設隊が民族の誇りだったとか、民衆の味方だったとかいう嘘を出回らせてはならない。
“共匪討伐”という言葉が抗日英霊を悪鬼の如くして追い払う万能のお札として使われる時代はもう終わりにしなければならない。」

「本書は特定の人、特定の集団を非難したりけなしたりするために書いたものではない。」

『間島特設隊』(西海文集 出版)の著者キム・ヒョスンのこの言葉は、本書が論争的であったり、少なくとも特定の人たちには非常に居心地の悪い、または攻勢的である可能性があることを暗示する。しかし、それに続く言葉は穏健で合理的だ。「日本帝国主義の暴圧的な統治期を生きた人たちに対して、抗日の尺度を一律に突きつけてはならない。抗日行為は当事者の命は言うまでもなく、一家の破滅までもたらす危険千万なことだった。・・・そんな苦難の道を歩まなかったからと言って、全ての人を責めることはできない。」

 しかし、だから親日問題には蓋をしておこうとか、適当にぼかしておいた方が賢明だという話をしようというのでは決してない。 「だが、抗日運動の反対側に立っていた人が自分の過去を美化し正当化する破廉恥な行為は、決して容認されてはならない。 いかなる場合にも、(朝鮮義勇隊で抗日武装闘争を行った)金学鉄(キム・ハクチョル)と(日本陸軍中将に出世した)洪思翊(ホン・サイク)を同列に論じることはできない。抗日武装部隊と間島特設隊も同じだ。 間島特設隊が民族の誇りだったとか、民衆の味方だったとかいう真っ赤な嘘を出回らせてはならない。“共匪討伐”という言葉が抗日英霊を悪鬼の如くして追い払う万能のお札として使われる時代はもう終わりにしなければならない。」  

満州国特殊部隊である間島特設隊は
兵士は朝鮮人、部隊長は日本人で
創設目的は抗日独立運動の“撲滅”だ

兵士の相当数が軍官学校に入り
将校訓練を受けた
白善燁(ペク・ソンヨプ)、朴正熙(パク・チョンヒ)などの首席卒業者には
日本の陸軍士官学校編入の機会が与えられた
1946年、米軍艦艇に乗って帰国した彼らは
大統領になり
国会議長、首相、国防長官になった

 『間島特設隊』が言いたいことの核心はまさにこれだ。既存の論争にとどめを刺そうという意気込みと自信がうかがえる。

 間島特設隊の朝鮮人先任指揮官だったキム・ソクポムは<満州国軍誌>で次のように語っている。「我々満州軍人出身は、日本帝国主義の弾圧のもとで祖国の地を離れ、由緒ある満州で独立精神と民族意識を涵養しながら武芸を練磨した血盟の同志だ。我々は他郷である満州で、鉄石の精神と信念の下に鉄の訓練を重ね 8・15の解放を迎えた。」

 彼らは本当に独立精神と民族精神の涵養のために満州へ行ったのだろうか? 満州軍とは、日本が1931年に満州を侵略した翌年に、没落した清朝“最後の皇帝”溥儀を傀儡として座らせて作った、事実上日本関東軍が統治していた満州傀儡国の軍隊だ。その傀儡国の幹部を養成するために、日本は2年制の奉天軍官学校(中央陸軍訓練処)と4年制の新京陸軍軍官学校を作った。

 「日本帝国主義は少ない兵力で短時日のうちに満州を制圧して満州国を立てたが、反日武装勢力の果てしない抵抗に悩まされた。それで各地に関東軍守備隊、憲兵隊と特務機関を駐屯させ、様々な特務外郭組職、警察署、分駐所と森林警察隊などを総動員して治安粛正に乗り出した。このような時代的背景の下に、間島特設隊が登場した。」

 間島特設隊は下士官を含む兵士がすべて朝鮮人だけで構成された、文字通り特別に設置された、満州国内の特殊部隊の一つだ。本格的な中国本土侵略が始まった翌年の1938年9月に創設され、日本の敗戦まで7期にわたって約690名を選抜した。 創設目的は治安粛正、つまり反日武装勢力の抵抗粉砕、抗日独立運動の“撲滅”“討伐”だった。独立精神と民族精神を涵養する所ではなく、抹殺する所だった。

 キム・ソクボムは「満州にあった多くの少数民族の特殊部隊の中で、朝鮮人部隊が最も強力であり有名だった」と述べている。「日本軍や満州軍の遂行できない作戦を間島特設隊が行っては容易にやってのけたりした。」 日本人も間島特設隊を「常勝の朝鮮人部隊」と呼んだそうだ。独立運動勢力をそれだけ無慈悲に“掃討”したという話だろう。「鉄石の精神と信念、鉄の訓練」はキム・ソクボムの語るように8・15の解放を迎えるためのものではなかった。自分たちの存在根拠を一挙に吹き飛ばしてしまう満州国崩壊と朝鮮民族解放は、彼らにとっては実現されてはならない悪夢だったかもしれない。

 奉天・新京軍官学校で訓練を受けた朝鮮人の多くが間島特設隊の将校になり、間島特設隊の兵士の相当数が軍官学校に入って将校訓練を受けた。奉天軍官学校第5期のソン・ソクハ、9期の白善燁、そして新京軍官学校第1期のパク・イムハン、2期の朴正熙と4期のチャン・ウンサン、5期のカン・ムンボンなどが首席卒業者であり、彼らには日本の陸軍士官学校編入の機会が与えられた。

 彼らの“活躍”のおかげか、1940年代半ば、間島など満州一帯の朝鮮独立運動勢力はほとんど壊滅する。そこには日帝の残酷な討伐・掃討強化のほかに、コミンテルンと中国共産党の戦術的誤りと民族的不信と差別、朝鮮民会などを中心とした親日既得権勢力の蠢動と民生団事件など、いくつかの要素が作用した。

 にも拘らず、日本は結局亡びた。満州国は解体されて、間島特設隊もまた解体された。日本帝国に忠誠を尽くしていた満州軍出身らにとって、それはまさに悪夢だった。しかし、長くは続かなかった。1944年8月満州軍歩兵8団に転属された奉天軍官学校第5期のシン・ヒョンジュンと新京軍官学校1期生イ・ジュイル、2期の朴正熙(パク・チョンヒ)中尉はその1年後、北京に行って日本降伏後に編成された“解放後の光復軍”に入った。すでに44年8月頃には間島特設隊の将校と満州軍の他の部署に転属された朝鮮人将校の任務の間には大きな差がなかった。 ほとんど例外なしに八路軍など抗日勢力討伐に動員された。したがって、朴正煕が間島特設隊にいたかどうかを問題にすることは無意味だ。

 彼らは1946年5月、米軍の艦艇に乗って釜山港から帰国した。 そうやって続々と入国した彼らは、キム・ソクボムが誇らしげに語ったように、大統領になり、国会議長、国務総理、国防長官、軍参謀総長、海兵隊司令官(初代シン・ヒョンジュンから2代キム・ソクボム、3代キム・デシクまでの海兵隊司令官がみな間島特設隊出身)、軍司令官、軍団長、師団長、連隊長、高級参謀となって大韓民国の要職を占めた。満州軍出身の親日加担者を徹底的に清算した中国とはまったく違っていた。彼らを“親日”の悪夢から救ったのは、韓半島の分断と米軍の占領、そして戦争と冷戦とともに始まった“反共主義”の狂風だった。そして満州で彼らの討伐・掃討の対象だった抗日勢力の多くが北に行ったことも、彼らには免罪符として作用した。

ハン・スンドン記者 sdhan@hani.co.kr

https://www.hani.co.kr/arti/culture/book/625500.html 韓国語原文入力:2014/02/25 15:30
訳A.K(5347字)

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