原文入力:2009-04-28午後10:34:39
←キム・ヒョスン論説委員
春雨が意地悪くぱらついた去る25日午後、ソウル ヒャンニン教会で ‘真実と未来, 国辱百年事業共同推進委員会’ 創立大会が開かれた。日帝の朝鮮占領百年になる2010年をどのように迎えるかを巡って学術・市民団体数十ケ所の実務主役たちが数ヶ月間持続的な討論を経たあげくスタートさせたものだ。行事会場にはキム・ジャドン臨時政府記念事業会会長,民俗学者シム・ウソン,歴史学者イ・イファ,パク・ジェスン前弁護士協会会長などの元老と高齢の被害当事者たちが出てきた。政府樹立以後、親日警察を追い出そうとしたが謀略により処刑されたチェ・ヌンジンの令息であるチェ・マルリプ前大韓オリンピック委員会副委員長の姿も見えた。
残念ながらこの行事はきわめて一部のインターネット言論を除けば報道されなかった。真の親日清算要求は決して故障したレコードの繰返し再生ではない。この前、国防部が軍元老のペク・ソンヨプ将軍を ‘名誉元帥’ に推戴する方案を検討中だと発表したことから出てきた本末転倒した価値体系の粘り強い生命力を痛感する。
ペク将軍は国内より国外で評価が高い軍人だ。英語と日本語版で何巻かの著書が出ている。創軍に寄与した軍人でこれほど派手な経歴を持った人は探し難い。彼が回顧録で言及した日帝時代の軍歴はとても簡略な方だ。奉天(現在の瀋陽)の満州軍官学校を終えて1942年春に任官しチャムス(佳木斯)部隊で1年間服務した後、間島特設隊である韓国人部隊として専属した。3年勤めて解放をむかえ、その間熱河省と北京付近で八路軍と戦闘を行ったと言う。
間島特設隊の性格に対するもう少し詳細な言及は国内で出版されなかった<大ゲリラ戦,米国はなぜ負けたのか>という本に見られる。原書房で1993年に出版したこの本には ‘間島特設隊の秘密’ という章がある。間島特設隊は1938年12月従来の国境監視台を解体し、下士官を基幹要員として間島省延吉県ミョンウォル区に編成された。部隊長と中隊長の一部が日本人であり残りはすべて韓国人だった。
ペク将軍がこの部隊に配属されたのは1943年2月だ。彼の表現を借りれば昔から馬賊匪賊が荒れ狂った地域で ‘武装遊民’ らが日本勢力の進出に抵抗し、彼が赴任した頃には相次ぐ討伐に押されたゲリラがソ連領に逃げたために活動が弱くなっていた。間島特設隊の厳正な軍規は日本軍指揮部でも定評となっていた。射撃・銃剣・剣道などの競演大会で常に優勝するほどであったのでゲリラ掃討戦で大きな戦果を上げたことは当然だった。
当時の状況を記述する彼の心に葛藤がない筈がなかった。彼は「私たちが追いかけたゲリラの中に多くの朝鮮人が混じっていた」として「主義主張の差があるとは言え、韓国人が独立を要求して戦っている韓国人を討伐したのだから、蛮夷で蛮夷を制圧しようとする日本の策略にそのまま挟まった形になった」と認めた。一方で自己弁解も忘れなかった。「私たちが真剣に討伐したので韓国の独立が遅れた訳でもなく私たちが逆にゲリラになって戦ったとしても独立がはやくなるということはありえない。それでも同胞に銃を向けたことは事実で、批判を受けても仕方ない」という部分がそうだ。
チャ・チャンジョ光復会事務総長は創立大会で「国が山に行くのか海に行くのかめちゃくちゃになった」と悲憤を吐露した。私たちがその時期をはっきり記憶しなければ国辱が繰り返されないという保障はない。
キム・ヒョスン論説委員hyoskim@hani.co.kr
原文: https://www.hani.co.kr/arti/opinion/column/352259.html 訳J.S